三つの終わり・Ⅳ
クラリス・F・クリストファーにとって生きることとは喜びと悲しみが等量だった。
両親に愛され、両親を愛した。弟を大いに構い、弟から懐かれた。伴侶も得た。子も孕んだ。世界は幸せに満ちていた。家族こそが幸せの形だった。
産まれてきた子に先天的な疾患が見つかった時も、家族と一緒にならば何とかしていけると確信していた。何しろ透視などという異常を抱えた自分が幸せになれたのである。どうして我が子を幸せにできないことがあろうか。
伴侶が事故に巻き込まれて死んだ時も、やはり家族と一緒にならば何とか乗り越えていけると信じた。何しろ子を残されている。難病を抱え病院から出ることも叶わないが、そうであればこそ母として奮闘しなければならない。
だから、今回もまた何とかなると考えていた。
新十字軍のおぞましき真実を知り、その汚わいによって得難き友を失っても、家族と真っ直ぐに向き合える生き方を貫いていけば幸せが訪れる……そう思い込まなければ前へ進めなかったのかもしれない。家族の明るさに力を得て、認めがたい暗闇に挑戦したのかもしれない。
命懸けであることは承知していた。それでも危険を冒した。
クラリスは秘密裏に銀騎長ピガール・ノアの調査を開始したのである。
新十字軍欧州方面軍において金騎長に次ぐ第二位の軍権を有するこの男は、もとより強引な手腕と独断専行によって眉を顰められることも多かった。金騎長と対立していることは軍内の公然の秘密だった。
怪物の真実とは?
あんなものを開発し、運用し、一体何をなそうとしていたのか。
『繁殖牝馬』を捕らえた理由は?
近く開かれるという宗教裁判は、マリア・ライミスを護るものではあるまい。
スカイウォーカーとの交渉の内容は?
エティエンヌが聞いたという『聖母協定』という言葉は何を意味するのか。
百人隊の未知の装備はどうして不死人の武器に似ている?
雲上へ攻め上がるためという部隊をどうしてあのタイミングで投入したのか。
ピガール・ノアの狙いは……何だ?
考えれば考えるほどに尽きぬ疑問があって、それらの多くがピガール・ノアという一個人の秘密を暴くことで解明するように思われた。諸悪の根源とすら感じられた。
そしてその疑惑は、きっと、的を射ていたのだ。
クラリスはくしゃりと笑った。
彼女は今、小汚い裏路地に倒れている。
遠く遠く、建物に遮られて細く長く見えている青空はまるで川のようだ。清澄で、清純で、清涼で……美しい。奇跡のように。
涙が邪魔だった。この最後の風景がぼやけてしまう。
血が止まらなかった。死は避け難い運命となっていて、今や目前に迫っている。
不意のことだった。食料品の買い出しに出ていたクラリスは、顔も知らない男によって路地裏へ連れ込まれた。抵抗のしようもなかった。銃口を背に当てられ、家族のことを口にされたから。
そして、時を置かず数発の銃弾がクラリスを貫いた。顔でなかったことを、ごく僅かにだが幸運に思った。即死でなかったことは幸か不幸かわからない。
もはや痛みもなく……ただ空ばかりが美しい。
「……あ……う……」
最後に子供の名を呼びたかった。幸せであれと言葉にしたかった。
思えば出産が一つの契機だった。子供を得てからの幸せは絶大なものであったが、反面、子供を得てからの不幸せもまた絶大であったように思われた。
「あ……」
涙のためか死のためか、何を映しているのかもわからなくなってきたクラリスの視界に、大きな白い翼が閃いた。少なくともクラリスはそれを翼だと思った。
天使かもしれない。天の国へ迎え入れてもらえるのかもしれない。
命の終わりに敬虔な驚きを覚えていたクラリスは、しかし、信じ難い言葉を聞くことになった。
「善き人よ。我々は貴女の行いの尊きことを認めた。それゆえに一つの権利を与えよう」
天使のごとき不死人が、言う。
「汝、不死を得て雲上へと昇ることを望むや否や?」
クラリスは泣いた。
現実とは死のその瞬間にまで理不尽さに彩られていた。
◆◆◆
冷ややかなそこは地下室と思われた。
狭く、医療器具が並んでいて、薬品の臭いが靄のように対流している。
病院という気はしなかった。それにしては誠実さや清らかさに欠けているように思われた。
まだ、ここは戦場だ。
あるいは、世界そのものが戦場と化したのかもしれない。
そんなことを思いながら。
エティエンヌ・ロワトフェルドは身を起こした。
青白い入院服に包まれた彼女の身体には、僅かな傷一つもなかった。




