三つの終わり・Ⅲ
エティエンヌが死んだ。殺された。
それだというのに、世界はどうというこもなしに未だ動いている。
マリアはその理不尽を受け止められなかった。目の前を通り過ぎていく時間を他人事として、暗い暗い夜に独り立ち尽くした。
「現実とは残酷なものです」
片足で器用に立つ悪魔が、ステッキをくるりと回してそんなことを言う。
「必ずしもヒーローが勝利するというわけではなく、その敗北も劇的であるとばかりは限りません。実に呆気なく人生の終わりは訪れます。無慈悲に。理不尽に。無味乾燥として」
ひょこりひょこりと黒いそれが近づいてくる。
マリアはそれを待たない。ただ目に映している。視界に動く黒いものとして。
「結末に至ることは、結論を得ることと同義ではないのですよ。だからこそ死とは遠ざけるべきなのです。この世に生まれ落ちたからには、誰であれ、世界に納得したいものでしょう?」
夜気と熱気とがない交ぜになって気持ちの悪いこの世界で、その言葉はぬめりけを帯びているようにすら感じられた。
だから、マリアは身震いと共に反論していた。
「……納得など、できるはずもありません。しかし、それでも死は受け止めなければなりません。全ての生き物がそうしてきたのですから」
「聖母は随分と優等生な物言いをなさいますな。まるで心がこもっておりませんが」
氷をすり合わせたような、耳障りな音が響いた。悪魔の嗤いである。
「お認めになったらいかかです?」
ねっとりと耳に絡みつくその声音に、マリアは眉をしかめた。
「聖母。貴女は今、不死に魅入られようとしています」
奥歯を噛んでいるためだろうか、奇妙に動かしづらい唇を無理矢理に使ってマリアは返した。
「いいえ。意図せず不死となった私ですが、決して自ら生きとし生けるものの理を蔑ろにするつもりなどありません」
「なるほど、不死の被害者であるとおっしゃいますか」
「それが事実です」
「この場においては中々に大胆不敵な自己弁護ですね。何しろ、ほら、貴女を救わんとした人間がそこに倒れていますよ?」
肩が跳ねた。マリアは込み上げるものを喉の奥で堪えた。
「お言葉を借りまして、死の被害者とでもいいましょうか。この者もきっと意図せぬ死でしたでしょうから」
どの口がそれを言う。
身体を震わせるものは怒りだろうか、それとも哀しみだろうか。マリアは正体不明の衝動を持て余して、荒く、呼吸を繰り返した。
「救えますよ?」
弾かれたようにアルファベータへ顔を向けた。マリアは睨んだ。視線で射殺したかった。口を開くことはできなかった。
「貴女がその血を与えればいいのです。それでこの終わりを拒否できます」
裂けたような笑みを浮かべるランドウォーカーが喜々として話す。
それを一言一句聞き逃すまいとしている己を、マリアはさもしいとは思えなかった。
「貴女はただの不死ではありません。聖母なのです。未分化にして芳醇なる不死の力を有しておられます。その身に聖杯を宿す今なればなおの事でしょう。実際のところ、こうしているだけでも匂い立つものがあるほどですよ……」
ナメクジのような舌が現れて、身をひねり、口中へと戻る様を見る。
欲に塗れたその気色悪さも、つまるところ、アルファベータの語る言葉が真実であることを証明している。マリアはもう一度見たいとすら思った。
だから、その場へ割って入った声に心臓が跳ねた。
「やめろ、聖母。怨念を生むぞ」
炭化した木々を踏み砕き現れたのは、煤に汚れたボロボロの身なりの男だ。
不死人なのだろう、とマリアは思った。
もはやこの場は死と不死としか在れぬところとなった……そう感じていたからだ。
「おや……ユニスを使い捨てて腕の一本とはお見それいたしました。さすがの腕前です」
確かにその男は左腕を失っているようだ。しかし右手には武器らしき何かを握り締めていて、眼光も鋭くアルファベータを見据えている。
「もう一度言う。やめろ。お前がしようと考えたことは、死者の復活ではない。死者をゾンビにすることだぞ。その忌まわしさを思え」
男の言葉はマリアへと向けられている。低く腹に響いてくる声だ。
「生きれば、死ぬ。自然とはそれだ。それ以外を求めるな。ましてや他人になど」
「……エティエンヌは他人ではありません。大切な友人です」
「でした、と言え。血迷っているのか」
「聖母に対して何と無礼な。そして酷薄でもあります。貴方にとっては名も知らぬ益体もなき死であろうとも、聖母にとっては特別な死であるというのに」
「いちいちに妖言を……!」
男は武器を構え、覚束ない足取りながらも前進する。
アルファベータはステッキを構えてそれを待ち受ける。
どちらも常人であればとうに死んでいる大怪我だ。不死人とはいえ傷は痛むであろうし、四肢の一部を失った衝撃というものもあろう。
それでも両者の間ではマリアが気圧されるばかりに空気が張り詰めている。まるで空間が軋んでいるかのようだ。
「提案いたします。退かれては? どうやら貴方は不死性が高い方ではないようです」
「聖母を連れていかせるわけにはいかん」
「おやおや、結局は貴方も聖杯に目が眩んでいらっしゃる」
「そんなモノがいるから誰も彼もが欲深く歪んでいくのだ」
「ムラクモ殿の御子息とも思えない言葉ですね。あの方は聖母の守護者でありました」
「あの男は守護の対象を死なせた無能だ。それが聖母であったことは無能なりの幸運だ」
「うふふ……若い言葉ですね。まるで親離れのできていない少年のようですよ?」
「道化が。他者を嘲笑えば己の滑稽さを消せるとでも思うのか」
「私が道化なら貴方は迷子です。意固地になって刃物を振り回している……適当な名分を真理であるかのように嘯いて」
「……命乞いか? ゾンビ」
「父を乞うよりは、まだしもマシかと」
次第次第に距離を縮めていった二人は、最後には無言となって、そしてぶつかった。弾け、唸り、吹き荒ぶ……その攻防は風によるものか殺意によるものか。
余波を受けて乱れる黒髪に触れもせず、マリアはゆっくりと歩を進めた。
結論は出ていない。一歩一歩のごとに心は迷い、揺れている。
それでもマリアは止まらなかった。
エティエンヌの顔を見たい。いつしかマリアの心はその思いだけになっていた。
◆◆◆
死傷者の数は甚大だった。
ドラゴンと戦った修道士中隊の損害はもはや壊滅といっていいほどで、距離を置いていた狙撃チームですら火に巻かれて半数が重傷を負った。回収班としてガロンヌ川に待機していた者たちはランドウォーカーの奇襲を受けて高速艇ごと潰された。
クラリスはこんな現実を認めたくなかった。
戦争の悲惨。作戦の被害。友の……死。
それでも向き合わんとして、ここにまで来た。作戦本部から飛び出して、道路を封鎖していた地元警察刑事レナルド・M・ギャバンに車を走らせてもらって。
それが、どうだ。
この場にはクラリスに知らされていなかった部隊が展開していた。負傷兵の回収に向かうでもなしに、胸を張り居丈高な様子である。ガロンヌ川の対岸に伏せていたようだ。
誰が計画したものであるかは明らかである。
「同志諸君! 許しがたくも、あの森にはウォーカーが跳梁している!」
大仰な態度で、銀騎長ピガール・ノアが熱弁を振るっている。
装甲車のエンジン音もその自信に溢れた声を遮ることが叶わず、高速艇炎上の黒煙もその煌びやかな装いを曇らすことが叶わない。
「しかし大いに傷つき、弱っているようだ。これは勇敢なる騎士、エティエンヌ・ロワトフェルドの遺功である。我らは彼女の犠牲を無駄にしてならん!」
語るな。お前がエティエンヌを語るな。名をすら口にするな。
思えども言えず、言えずとも思わずにはいられないから、クラリスは唇を噛み手の平に爪を立てる。瞬きすら惜しんでその煌びやかな集団を睨みつける。
百人隊。ピガール・ノアの直率する特別な戦闘集団である。
新十字軍の各方面軍より選抜された人員により構成されており、最高の待遇でもって最新の兵装を使う最強の兵士と喧伝されている。雲上カタコンペへ侵攻する際にはその最先鋒となることが部隊としての使命だとか。
「排除……いや、違う! 駆除だ。ここは敢えて駆除という言葉を使おう!」
わざとらしく暑苦しいその弁舌が、百人の戦意を盛り上げていく。
「同志諸君、ウォーカーを駆除すべし! 断固たる態度で進軍し、許されざる不浄を清めるべし! それが人類の防疫を担う我々新十字軍の存在理由であり、その最精鋭たる同志諸君がまさに身命を賭とすべき仕事だ! 何と神聖なる闘争だろうか!」
大仰に言い募ったピガール・ノアの右手には、奇妙な懐中電灯のようなものが握られている。それを掲げて、満面の笑みで、言う。
「光、在れ!」
絹を裂くような音が一つ鳴り、次いで百も同時に鳴った。
何だろうか、それらは。
ピガール・ノアが蛍光灯のようなものを掲げている。百人隊の一人一人もまた同様だ。夜に際立って林立するそれらは……光の剣、とでもいうものだろうか。
「神聖なるは我らなり! 行け、同志諸君! ウォーカーを駆除し、『繁殖牝馬』を奪還するのだ!」
誇らしげに、楽しげに。勇ましく、意気揚々と。
百人の兵士が百本の光を掲げて森へと行進を始めた。彼らの一人一人は明るく照らされていて、それで却って周囲の闇は濃い。まるで彼らだけが光に選ばれたかのようだ。
クラリスは、その後を追った。
待機命令を破っての行為だった。誰かに呼び止められても無視した。それはクラリスにとって初めての命令不服従だった。
クラリスは何度もころんだ。焼かれ荒らされた木々の合間を行くなど日中であっても危険な行為だ。方々に切り傷を負ったし、煤で汚れもした。それでも止まらなかった。
ウォーカーは……不死人は二人いた。透視で見た二人だ。どちらも人間であれば死んでいるだろうほどに満身創痍となっていた。どうやら不死の身で殺し合っていたようだ。
光の剣を構える百人は数に任せて襲いかかったが、戦闘にはならなかった。
二人が逃げたからだ。
不死人はどちらも既に戦える状態ではなかったのだろう。夜の闇に紛れていずこかへと消えていった。腕がなかろうが足がなかろうが、彼らは超人的な力を発揮する。
百人は二人を追ったが、さして時間をかけずに戻ってきた。作戦の目的を思えば当然か。
何人ずつに分かれどこまで追ったかも、クラリスはつぶさに知ることができた。夜に輝く光の剣はどこにあっても存在を主張する。
そして、問題が起こった。
『繁殖牝馬』ことマリア・ライミスが新十字軍に抵抗したのだ。
「私を止めたくば、その破廉恥な剣で首を落としなさい。この夜に傷一つなく正義と勝利を標榜する貴方方は醜悪です」
彼女はエティエンヌの側を離れない。
ああ……エティエンヌ……仰向けに横たわったその遺体には胸に大きな穴が開いている。
私はそれを知っていた。思い出せなかったが、知ってはいたのだ。
クラリスは絶望と共に己の罪を自覚した。
透視能力など、なければいい。この世界は見れば見るほどに残酷で、罪科に満ち満ちている。
「こんな結末を、私は認めません」
その声はあまりにも強く響いた。マリアだ。夜に汚れても凛として気高い横顔……ルビーを思わせる紅の瞳が煌々と光を放っているかのようだ。
「戦ってください、エティエンヌ。生と死と不死とが混在するこの世界で……全てを知ったその先に、貴女の、貴女だけの勝利を得ることを祈ります」
マリアの手の平から血が流れ落ちた。
赤い赤いそれがエティエンヌの口につながった。流れ込んだ。
聖体拝領。
百人隊の誰かが呟いたその言葉を、クラリスもまた口の中で繰り返した。
「聖体、拝領……これが」
凄惨な戦場を背景に、百人の騎士と百本の光剣とに囲まれて、何人も触れ難き神々しさがそこにあった。




