三つの終わり・Ⅱ
エティエンヌは友軍の危機に背を向けて走る。
手には友であり作戦目標でもある少女の温もりを感じている。
「エティエンヌ、怪我が……肩が痛むのではないですか?」
黒髪を夜闇に振り乱して、身重なはずのマリアが気遣ってくる。無様なことに違いない。助けに来た人間がむしろ助けられているのだから。
しかしそのことを苦々しくは思わなかった。それどころか、今、エティエンヌはつないだ手に恃むべき縁を感じている。この夜を駆け抜けるための、唯一の力であるとさえ思う。
「大丈夫だ。これくらいのことで、弱音を吐いたりはしない」
肉体の痛みはむしろ望むところだった。自分もまた大層な苦労している気になれる。
突入班のメンバーを想う。
彼らは自ら怪物となるべく使命を帯びていた。この作戦を成功させるために忌むべき化け物へと変身する覚悟を決めていたのだ。
怪物。
人類の天敵スカイウォーカーの罪の証にして、エティエンヌから家族を奪った存在だ。そう信じていたし、これまでの戦歴はまさに怪物との戦いの連続であった。
全てが、偽りだったのだろうか。
全てが、無意味だったのだろうか。
叫び出したくなるような混乱の火嵐が心の中に吹き荒れて、身体中に冷や汗がのたくり震えが伝播している。ともすれば何もかもを投げ出して座り込みたくなる。
それでもエティエンヌは走る。歯を食いしばって。
逃げろ、とデヴィッドたちが言った。行きましょう、とマリアが言う。さて、クラリスはどんな言葉をくれるだろうか。
聞いた言葉と聞きたい言葉がある。だから走る。走るしかないのだ。この夜を越えていくより他には生きる道はないのだ。戦い抜くと思い定めたこの上は、たとえ何があったとしても、立ち止まることはあってはならない。
「マリアこそ、具合はどうだ? 辛くはないか?」
「……少しも。傷一つとしてありませんし」
「そうなのか。無茶をしたが、マリアに怪我がないならその甲斐もあったな」
並走するマリアは言葉の通りに健康な様子だ。息も乱れていない。余力もありそうだ。
いっそ先に行かせた方がいいだろうか……余力なきエティエンヌは、冷静にその選択肢を思案しはじめた。ガロンヌ川に待機する高速艇にはサイモン修道士が乗っている。一報を入れさえすれば上手く対処してくれるだろう。
ああ、そうだ……エティエンヌは今更に思い至って唇を噛んだ。
サイモンにデヴィッドの最期を伝えなければならない。生き残りの義務であるそれは何度経験しても慣れるものではない。
疑念もある。はたして彼は怪物の秘密を知るや否や。
「……エティエンヌ? 本当に大丈夫ですか? 顔色が……」
「駄目ならそう言う。今は急ごう。まずは道路へ出る。そうすれば脱出艇まですぐだ」
バックアップの人員すらも前線へと出ていて周りには誰もいない。そこまでに追い詰められた戦況だ。それでも最悪ではない。水上でも危機はあろうが、その先では空路だ。
その空へ炎が噴き上がった。咆哮と爆発音がそれに続く。
「ドラゴン……何て恐ろしい化け物なのでしょう。まるで暴力そのもののようです」
気にせず急ぐようマリアへと声をかけようとして、エティエンヌは背筋を走る怖気に小さく悲鳴を漏らした。遠く聞こえた木々のへし折れる破壊音、大きなふいごの吸気音、前線に戦う誰かが苦しみの中で発した警告と悲鳴……来る!
「おおおおっ!」
マリアへと体当たりした。そのまま被さるようにして倒れ伏す。熱風が背を撫でた。冷感と錯覚するような鋭利さだ。背の激痛は一瞬だった。木の根に打ちつけた肘の方が痛む。
熱気にむせながら、エティエンヌは静かに確信する。
重篤な火傷を負った。これはもはや致命傷かもしれない。
「エ、エティエンヌ……貴女……!」
「走れ、マリア」
土や草に汚れてもなお気高い友へ、エティエンヌは命じた。
「手負いの獣を森の外へはやらない。ここで私が仕留める」
「貴女、背中が……!」
息を呑むその様子に、エティエンヌは自らの命の残余を計った。どれだけ動けるだろうか。いつまで動き続けられるだろうか。
「あと少しなのでしょう? 一緒に……!」
「時間がない。戦友たちがつないだチャンスを無駄にしないでくれ」
「けれど!!」
「マリア、マリア……私の友である、マリア」
白い頬に触れる。きめ細やかな肌はエティエンヌとは似ても似つかないものだ。
彼女のためにならば、いい。
奇妙な出会い方をして、擦れ違いもあったし、喧嘩もした。優しい言葉をやり取りすることなどこの死地においてが初めてかもしれない。互いに互いを未だよく知らない。
それでも、このマリア・ライミスという人間を明日へと生かすためならば、エティエンヌは戦える。その結果として死ぬことも厭わない。
彼女の強さは眩いほどだ。
数奇な人生を送ってきた彼女は、エティエンヌが出会って以降も強者の意向に翻弄されること甚だしかったが、決して己を見失うことがなかった。真っ直ぐに理不尽なる世界と向き合っていた。
今、信じてきた正義を信じきれなくなったエティエンヌには……戦う目的すら見失いそうな『セシル』には、マリアの在り様が何よりも尊く感じられる。
マリア・ライミスは闘士だ。
彼女の信念は、思い込みではなく、考えることを放棄したわけでもない。彼女の強さは、生来のものではなく、ある日唐突に得たものでもあるまい。
悩み、苦しみ、抗い、挫けずに歩んできた道程が彼女の今を形作っているのだ。逆境にあってこそ彼女を支えているのだ。
敵わないな……エティエンヌはフワリと微笑んでいた。
「マリア、私は騎士なんだ」
少々の照れをすら感じながら、素直に、エティエンヌは言葉を紡いだ。
「カッコよく戦いたいんだ。戦うべき時に戦わず終わってしまいたくないんだ。デヴィッドたちにさすがは騎士ロワトフェルドと思ってほしいんだ」
重機とも猛獣とも知れない音が近づいてきている。
「何より、友には……勇敢であると思われたい。私は」
既にアサルトライフルを失っていたから、エティエンヌは右手で愛用の拳銃を抜いた。スプリングフィールド・オメガ。握り持てば沸々と湧き上がる戦意がある。
「父さんも、母さんも、兄さんも……そんな私を、きっと……!」
遂にはドラゴンの姿が見えたから、エティエンヌは走り出した。まずは走ることができたことに安堵した。次に身体に痛みがないことに、四肢が軽快に動くことに感謝した。
ああ……やはり、やはりだ!
今この瞬間に、自分は、最後の力を振り絞るべきなのだ!
新鮮な確信を一つ得たのだから、もう迷うまい。エティエンヌは戦うことができる。
牽制のための一撃は過たずドラゴンの鼻先に弾けた。
◆◆◆
止められず、何も言えず、死闘へと身を投じた友を見送る。
マリアは己の頬に触れた。その手を見る。赤い。エティエンヌの手を伝って付着した血液だ。
「エティエンヌ……貴女は、まるで英雄のよう」
方々に燃える火に照らされて、ドラゴンと騎士が戦っている。どちらも満身創痍だ。互いに他を終わらせんとしてぶつかり合う。
しかし、違う。生物種としての差をおいても、両者は余りにも異なる。
「救うために戦い、護るために抗う……貴女の決死は、人間の善性を体現している。化け物の死に物狂いを相手取って、どこまでも尊く、どこまでも輝かしい」
牙が、爪が、尾が、人間の尊厳を打ち砕かんとして振るわれる。
彼女はそれを避ける。余裕などなく、間一髪の連続だ。見る間に傷が増えていく。背筋の寒くなるような……勝利したとしても完治など望むべくもない欠損を生じていく。
それでも彼女は戦うから、マリアは震えた。哀しさと……愛おしさに。
「言いつけを破ることになるけれど……」
大きく息を吸い、そして吐いた。
「死が跋扈するこの夜に……貴女を見届けないではいられない」
もはや川へ向けて歩を進めることもやめて、マリアは真っ直ぐにエティエンヌを見た。
「不死だから」
告げる。聞こえるわけもない言葉を、力を込めて。
「この身はもう不死になってしまったから、貴女に護ってもらえる命ではない。貴女の生と死に見合うものがない。この夜に一筋の傷も負わず立つ者は、きっと、真実を生きていない」
エティエンヌがドラゴンを攻め立てている。かろうじて五体満足でいるといった身体で、走り、跳び、撃つ。見ればドラゴンは両目を潰されているようだ。
「それでも、私の心を……貴女が友と言ってくれた、私のこの心を……貴女に捧げよう」
ドラゴンが暴れに暴れ、エティエンヌをその大顎に引っ掛けた。遠目にも血が散った。深手だ。
「戦って、エティエンヌ……貴女らしく誇らしく……心のままに」
エティエンヌは怯まない。即座に置き上がり、むしろ意気軒昂、その首元に跳びついた。
「誰が見ていなくても、私が見ているから。貴女という命の尊厳を、心に刻みつけるから」
獣声と銃声が響き、二つの必死がぶつかり合う。もう間もなく決着がつく。
マリアは静かにそれを見守る。不安も緊張も感じてはいない。
愛が、そこに在った。
エティエンヌの全てを認め受け入れたマリアにとっては、この死闘の勝利も敗北も、等しく愛すべきものでしかなかった。愛とは見返りを求めない行為であり、それをもって見届けるのだから結果に左右されないこともまた必然であった。
「貴女の命が輝くこの瞬間に、もう、世界は救われている」
万感の思いを込めて、マリアはそう言祝いだ。世界を祝福した。
はたしてドラゴンと騎士との戦いは、一つの勝利をもって終わった。
エティエンヌが、勝った。
彼女はその銃をドラゴンの眼窩に突き刺し、抜くことなく発砲することで討伐を成し遂げたのである。壮絶な戦法であった。
火の色に照らされ血の色の染められて、英雄騎士は、地に膝をつくことなく立ち尽くしている。
「エティエンヌ」
呼びかけると、一歩ずつ地を踏みしめるようにして歩み寄ってくる。
「エティエンヌ」
もう一度その名を呼ぶと、右手の銃はそのままに、エティエンヌは左手でナイフを抜き構えた。
「エティエンヌ?」
愛しい彼女のその顔には悲壮な決意が表れていた。
だから、マリアは多くを悟りながらも、ゆっくりと後ろへと振り向いた。
川が見える。遮るものなしに。
闇をたゆたう水面には赤い色がチラチラと閃き、夜にも黒い煙が音もなく立ち昇っては風に散らされ消えていく。船であったものが破壊され、炎上しているのだ。
それらを背景にして独り佇む人影があった。
慇懃に不吉さをまとうその者の名は……アルファベータ。
「今夜は、どうにも、エレガントに事が運びません」
ステッキと左足とで、ひょこひょこと、その不死人は近寄ってくる。
「人間を待ち伏せて死と炎の繚乱する様を演出しようとすると……舞台裏からコミックヒーローが跳び込んで来て、主賓を連れ去ってしまいました」
ひしゃげたシルクハットの下で、笑顔を浮かべているつもりなのだろうか。顔の左反面の皮は失われ、頬の肉と血管とが剥き出しになっているというのに。
「その泥棒を追いかけてこらしめてあげようとすると……歴史の影から禁忌の存在が立ち現れて、恐るべき力でもって私をかくも無残なことにしました」
笑った。それがわかった。
口元の皮膚がピンク色に再生していた。その範囲は徐々に広がり、ところどころ少しずつ肌色へと変化していく。不死の力か。
「私としたことが、あわや死んでしまうところでしたよ。本当に本当に危険でした……まあ、何とかいたしましたが」
クスクスと笑い声をたてた。心に寒さが吹きつける。
「私も不死となってから随分と経ちます。不老の身ではありますが……フフフ……若者の情熱を絡め取れるくらいには老獪ということです。どんな不測の事態に陥ってもいいように備えの一つや二つはありました」
エティエンヌとアルファベータの狭間に立つマリアは、笑う男から目を離さないままに後退を始めた。恐怖を覚えたからだ。彼女の大切なものを台無しにされる恐怖を。
「おや? 聖母に置かれましては私めの話にご興味ご関心をお持ちでない……何とも冷たいことですねえ」
隣に立つ前にも、エティエンヌの呼吸の音が聞こえてくる。
不規則で、雑音混じりで、短く、頻度が高い。次の瞬間にも絶えてしまいそうだ。
「ずっと身の回りのお世話をさせていた娘がおりましたでしょう? ユニスという名のあの子のことです。あの子が私の伏せ札の一つだったのですよ。あの見た目でも四十年やそこらは生きておりましてね? 粗雑な力の不死人とはいえ、まあ、何であれ使いようですから」
隣に立ったエティエンヌは、そこで止まらず、マリアの前へと出た。
ああ……その、何という後ろ姿か。もう声を出すこともできずに。
「不意をついた二体一……我が眷属たるドラゴンも加えれば三体一ですか……それでこの有り様なのですから、いやはや、何ともお恥ずかしい話ですよ」
アルファベータがすぐ近くにまで来た。
エティエンヌが銃とナイフとを構えて重心を落とした。
マリアは止めようと前へ出た。これ以上はもう意味がない……いや、意味を失う。
英雄騎士は、エティエンヌは、既に人間の尊厳を燦然と輝かせた。そのためにこそ命を用いて、今はもう残光を留めているにすぎない。
愛は無残を忌む。この後に起こるのはただのそれだけである。
「失敬」
たった一言と共にステッキが振られて、マリアは吹き飛ばされた。背から木にぶつかって呼吸困難に陥った。
そして、苦しみに涙ぐむその視界で、エティエンヌの死を目撃することになった。
エティエンヌは戦った。最後まで力を尽くした。右手で銃を撃ち、左手でナイフを振るい、四肢も千切れよとばかりに奮闘して。
しかし、殺された。その胸をステッキで穿たれて。
マリアの目の前で、彼女の友であるエティエンヌは、動かぬ屍と成り果てたのだった。




