煉獄に戦う者たち・Ⅰ
広く柔らかなベッドの上で、マリアはぼんやりと過ごしていた。
上品で落ち着きのある寝室だ。朝日を受けて飾り窓は煌めく絵画のようであるし、カーテンや調度品の色調はしっとりとした温もりを感じさせて微睡みを助長してくる。
鳥の声を聞くにつけ、伝わってくる。穏やかにあれかしという気配りが。川のせせらぎを聞くにつけ、わかる。ゆるやかにあれかしという優しさが。
無理矢理に誘拐されてきたのだ。どんな扱いを受けるものかと心を頑なに鎧っていた。
しかし一切の悪意なき丁重さとは抗いようもない。じんわりと、じんわりと……マリアはこの屋敷で過ごす日々に解きほぐされつつある。
そっと、小さく、ノックの音がした。
「失礼いたします。聖母様」
扉を開けたのは使用人の制服を着た少女だ。十二歳の彼女は名をユニスという。この屋敷に住み込みで働いているそうだ。
ここへ来てからというもの、マリアはこの少女としか顔を合わせていない。
「あの、お加減はいかがですか? もしもよろしければ果物や飲み物などをお持ちいたしますよ。食欲があるようでしたら、何か軽めのものをご用意いたしますし」
「ありがとうございます、ユニス。では飲み物だけいただきます」
「かしこまりました! では少々お待ちくださいませ」
ちょこんとお辞儀をしてユニスは扉を閉めた。そっと、音を立てないよう注意深くだ。
微笑ましいことだ。
言葉遣いこそきちんとしているものの、ユニスの立ち居振る舞いには手足の伸び切らない年頃特有の稚さがある。一々に一生懸命だ。
「清らかさは、真っ直ぐな姿勢の中に宿るもの……」
呟いて、マリアは己の腹へと手を添えた。
「生まれようと……生きようとする本能もまた、とても真っ直ぐで……」
息を吐く。小さく、そっと。吐き気に苛まれる日々に、それ以外の呼吸の仕方を忘れてしまった。
「真っ直ぐ、清らかに、私を苦しめる……」
白い枕カバーを見やる。そこには落書きのように抜け毛が散らばっている。
手を見る。白く細い指はささくれの一つもない。手の平を見れば茶色い大きな痣がある。左右共にだ。両足の甲と脇腹にも同じ色のそれがある。
「……私は、変わった……」
清潔な寝衣の袖をめくり、滑らかで艶やかな肌を目の前にして……吸うと吐くとを三往復。
マリアはそこへ爪を立てた。鋭く食い込ませた。力任せに引っ掻いた。何度も繰り返す。掻き毟る。
皮膚が裂け血がにじんで……それでもシーツは白いまま。
傷は、消えた。跡形もなく。血の垂れ零れる間もなしに。腕にも爪にも赤色は既になく、マリアはただ白磁のごとき己の肌を目に映すのみだ。
「……変えられてしまった。私は」
目を閉じる。居心地のいい空間を遮断し、孤独の闇の中で囚われの身を思う。
「私を聖母へと作り変えて……何かを企図する者たちが、いる……」
心の奥底で赤熱を発するものへと意識を向けた。やわやわと表皮から温くほだされていこうとも、冷えることも消えることもないそれへと。
「……そんな者たちばかり? 私の周りには」
幾つもの顔を思い浮かべた。
黒衣のアルファベータ。冷たく邪な微笑み。
ドラゴンを使役する不死人だ。何者かに仕え、その者の命令によりマリアを拉致監禁した男だ。マリアの血を欲しもした。紳士を装ってはいたものの狂猛さを隠し切れていなかった。
彼はきっと……聖母を豪華な嗜好品か何かとして捉えている。
修道女のモイレイン。艶然としつつも切なげな微笑み。
明言されていないが、彼女も不死人で、アルファベータと同じ人物に仕えている。親身に世話をされた。心配され、励まされた。それらの行為に偽りがあったとは思わない。
しかし彼女は修道院襲撃の実行犯の一人なのだ。間違いなく。
農業顧問メタコム。陽気で朗らかな、人好きのする笑み。
彼もまた不死人だった。アルファベータらとは敵対していて、礼拝堂に現れた天使のごとき不死人とは仲間のようだ。言動を思い返せば、きっと雲上カタコンペに住まう者の一人なのだろう。
正体を隠し、超常の白ユリを渡してきたその真意は……やはり聖母にまつわるものに違いない。
そして、もう一人。
「エティエンヌ……」
いつも不機嫌な顔をしていた、同い年の少女。
彼女は新十字軍の騎士だ。アルファベータがそう言っていた。軍の命令により修道院にやって来て、聖母としてのマリアを監視していたのだろう。そうと察してからは喧嘩ばかりだった。
「けれど……それでも……」
マリアは聞いたのだ。自分を助けると叫んだ、その断固たる決意の声を。
マリアは見たのだ。単身ドラゴンに立ち向かった、その勇敢なる姿を。
「エティエンヌ……貴女は……」
美しかった。
一人の人間が強大なる敵に相対し、怯むことなく退くことなく戦うその姿は……涙が出るほどに綺麗だった。抗い挑む姿勢には、人間の尊厳が眩いばかりに輝いていた。
困難は魂を研磨する。より強靭にする。
危難は魂を昇華する。より高貴にする。
あの夜、マリアの目撃したエティエンヌは英雄だった。ヒーローを気取るのではなく、真実、ヒーローだったのだ。
「……貴女は、私と……」
罵り合った。蔑み合った。遠慮なしの言葉を応酬した。
近かったからだ。
初対面のその時から、どうしてか、互いの心が近接していた。
「私と、友達に……」
それは祈りだったのかもしれない。
しかし妨げられた。いつものように。
飲み物をお持ちしました、というユニスの声に返事をして……マリアは安らぎの牢獄へと意識を回帰させた。
◆◆◆
「電話……ですか。私に?」
「はい! お加減がよろしいようでしたら、どうかお話しくださいませ」
マリアの問いに元気に頷いて、ユニスが銀盆を恭しく差し出してきた。
乗っているのは古風なダイヤル式の電話機だ。アンティークな芸術品としての趣があって、それも手を伸ばすことを躊躇わせる。
「怖くなんてありませんよ。とてもとても慈悲深い方です。聖母様のお加減を慮って、ずっとずっとお待ちになられていたくらいですから」
満面の笑顔でそんなことを言うから、誰のことか尋ねなくともそれが察せられる。
アルファベータの主たる男だ。
複数の不死人を従えて、雲上と地上とを諸共に相手取る男だ。
木製の取っ手に指先から触れて、握り、受話器を持ち上げた。見た目ほどには重くない。金色の金具には触れぬよう耳と口とにそれを近づけて……小さく声を発した。
「……ボンジュール?」
恐る恐るといったそれに対して、まず聞こえたのは明るい笑い声だった。そして。
「ボンジュール、聖母。話ができて嬉しいよ」
電話越しにも高く澄んで響くそれは、子供の声だ。声変わりをする前の。
「本当は直接会えればよかったのだけど、何しろ各方面から熱い注目を浴びること君以上という我が身でね。いちいち相手にしていたら会うどころか話もできない。困った話さ」
やれやれ、とでもいう風に間を開けて。
「生きとし生けるものの満ち満ちて、この世は賑々しくも騒々しい……箱舟に押し込められているでなし、もう少し落ち着きがあってもいいと思うけど……それでもこれが世界の風景というものなのだから、ま、少しは我慢してあげるのが王たる者の義務かもしれないね」
嗤う。王を名乗り世界を見下して、軽々しく。
「貴方は、一体……」
「聖杯王だ。唯一無二の支配者だよ」
一切の躊躇なく。傲慢さを感じ損ねるほどにキッパリと自負に満ちて。
「つまり君臨者だ。万物を統べるべくこの地に降り来たった者だ。そして絶対者だ。僕一人が尊く他は全て下らない。ゆえにこそ救世主でもある。世界を少しは整えてやらないといけない……どんなにか煩わしくともね」
さも当然という口調だ。何の衒いもなく高慢を表わしている。
「まずは掃除かな。地に蠢く獣の群れを教化折伏し、空に漂う老人たちを淘汰粛清して……少しは清らかな環境を整えたいよ。何をするにしてもそれからだ」
家の掃除を話題にするようにして、今、何か身の毛のよだつ計画が知らされた。
殺人……違う。生々しさなどまるで感じられなかった。
虐殺……それも違う。狂っている気配など微塵もない。
この声が告げた内容に最も当てはまる言葉は……そう……駆除だ。それが最も合理的と言わんばかりの冷徹なる理知を働かせて。
「然る後に、見所のある子たちを教育してやらないといけない。きっと世界を運営するにも人手が要るよ。最初期は仕方ないから僕が親の代わりを務めるけど、子の世話なんていかにも面倒で飽きのきそうな話だからねぇ……孫を愛でるように見守ってやるだけで充分さ」
子を、親を……その親までも語る。この凄まじき声は。
「あるいは神が人の子を沈黙の内に睥睨するように……ね」
語るか。神をまで。
耳に何かがヒタヒタと触れて、マリアはそれが受話器の耳当てであることを発見した。震えていたのだ。寒さからでも恐れからでもなく……憤りから。
「よくも……」
声もまた震えている。
「よくもそうまで……そこまで、驕り高ぶれますね」
「おや? 聖母は卑下と韜晦を美徳とする民族の末裔かな? 事実を説明し本心を語ることの何が驕りなのか……ああ、奥ゆかしさの話かな? それもまた弱者の世渡りの話だけどね」
「無邪気な声で、どうしてそんな分別も常識もないことを……!」
「一つ窘めておくよ。誰が相手であれ肉体的特徴をもって非難の対象としてはいけない。僕としても厳めしさや重々しさに欠けることは承知しているんだ。それが手に入らないこともね。何しろ僕は何十年何百年経とうとも第二次性徴を迎えることがない」
溜息が聞こえた。
「だから年長者を気取ることもやめることだね。滑稽に過ぎる。僕は少なくとも君の親が生まれるより以前から世界に存在していて、君よりも広く深く世界を知っているんだ」
憐れまれている。気遣われてすらいるのかもしれない。
「君は何も知らない。君の見聞きした世界は随分と狭苦しいから」
「……私の世界を……私のこれまでを、否定するのですか」
「ううん、違うよ。ただ未熟を指摘しているんだ。実際、君は自分の置かれた状況すらよくわかっていないじゃないか。とても人に対して意見できるような立場じゃないよ」
「何がわかっていないと……!」
「じゃあ、そのお腹の中に育っているものが何か、わかっているの? 最も身近なところのそれの正体をさ」
答えられなかった。唇を噛む。
「ああ、責めているんじゃないよ? むしろこの電話はご機嫌伺いのようなものさ」
クスクスという笑い声が聞こえた。唇に痛みが走った。気にしない。どうせ出血したとしてもすぐ治る。
「いけないいけない、怒らせてしまったかな? お詫びに一つ素敵なことを教えてあげるよ。聞けば少しは気鬱も晴れるかもしれないし」
笑いを含んだままに、電話越しの声は告げてきた。
「君のお腹にいる子だけどね?」
聞き捨てにできないことを、気安く、楽しげに舌へ乗せて。
「それ、僕にそっくりだから。生き写しというくらいに。何しろクローンだからね」
何を。何を言っているのか。この声は。
「エイリアン・アブダクションだっけ? 昔、未確認飛行物体による秘密裏の誘拐が怪談として流行ったけど、新世界の始まった今になって同じことをやっているんだから呆れるよね。天使を騙るのならもう少しマシなやり方もありそうなのに。雲上カタコンペなんて蔑称を受けるわけだよ」
意味のわからない言葉が連なって、訳のわからないことを言っている。
マリアは眩暈を覚えた。耳に受話器を押し付ける。冷感にすがる。
「聖杯より生ずる血肉は不死を約束する」
聞く。耳から入ってくる音の意味を捉えようとする。動かない頭を必死で動かす。
「その身に聖杯を孕んだ君は、胎盤を通じて、聖杯との間に多くのものを授受している。与えたものは主に栄養で……得たものは不死だ。ウイルスと抗体産生細胞についての説明は省くけども」
不死。
唇を噛み切っても、肌を引き裂いても、跡も残さず完治する我が身を思う。
「おめでとう。君はその高潔と美貌をもって塵芥の中から救い出されたんだよ」
目を閉じる。開けていたとしても何も見えないから。
「君はもう不死人なんだ」
耳は閉じられない。否応もなくそれは聞こえてくる。
「そして聖母だ。至高の宝石だ。勝者の王冠だ。天地をあまねく支配することとなる僕にこそ相応しい存在になったんだよ。素晴らしいことだね!」
シーツへと倒れる。それでも受話器は離れずに声を届けてくる。
「ただねぇ……その素晴らしさが愚者を招き寄せもするんだ。身の程を弁えない輩をね」
誰かが身体に触れてくる。ユニスだろうか。
「地を這う獣は、群れの種類がどうあれ、適当に掃き清めればいい。空に浮かぶ不死人たちはその老いにより既にして半ば滅びている。厄介なのは半端者の意固地かもしれないな……」
意識を失うその瞬間まで声が離れない。離れてくれない。
ああ……そうか、道理で。
最後にチラと見た視界には、満面の笑顔が映っていた。左手でマリアの首を押さえつけ、右手で受話器を押しつけているユニスの姿が。




