不死に至る病・Ⅴ
「ようこそ、欲得の醸造されし爛れた泥沼へ。新十字軍のお二人さん」
香水と酒精と性交臭とを漂わせて、長衣をまとったモイレインが座っている。
密談用だという個室は四人も入れば一杯という狭さだが、キャビネットには幾種類もの酒瓶が並んでいて、それぞれに別の色を照り返している。
エティエンヌは座るクラリスを庇うようにして立っている。
「フフ……何を探し求めてやって来たのかしらね。一夜の恋人? 不死の霊薬? それとも行方不明の聖母かしら……ウフフフフ……」
一見して無手無防備のこの女を、エティエンヌは一切の油断なく見張っている。
さもあれ、目の前にいるのは人間ではない。不死人だ。恐らくはランドウォーカー。あの夜の戦いを思えば、あるいはドラゴンよりも危険な存在かもしれない。
「そんなに睨まなくてもいいじゃない? 私は貴女たちをどうこうする気がないし、貴女たちは私から話を聞きたい……あとはどういう風に過ごすかだけのことよ」
モイレインはチューリップのような形状のグラスを取り出した。
「楽になさいな。清濁についてはともかく、ここは乾いた者たちの集う水場でもあるのだから」
高価そうな酒瓶から中身を注ぎ入れる。ブランデーか。
「それでも一つだけ忠告しておくわ。私の機嫌は損ねない方がいいわよ? 面白みのない時間に耐え忍ぶつもりはないの。立ち去る自由に追う自由……外で相対したのなら……わかるわよね?」
「貴様……!」
「ほら、すぐにそんな風に毛を逆立てて。そういう猫を愛でるのも楽しいけれど、威嚇の鳴き声を上げるのはやめておくことね。ここに騎士がいることを知ったら、沼の住人達が黙っていないだろうから」
警察よりも大騒ぎになるわね、などと言いながらグラスを傾ける。琥珀色の液体が揺れる。
「ご忠告、感謝いたします」
クラリスだ。両手を膝の上で重ね、行儀よく微笑みを浮かべている。
「騒ぎ立てることをせず、こうしてお話する機会をいただけたことにもまた、感謝を……修道女とお呼びすればよろしいですか?」
「好きに呼びなさいな。修道女とでも、魔女とでも、ランドウォーカーとでも。そして呼んだように私をわかればいいわ。それが人間というものよ」
「ご親切にありがとうございます。ではやはり修道女とお呼びいたいましょう。いつの頃からかは存じませんが、女子修道院を通じて我々よりお給金が支払われていたようですし」
「あら、薄給もいいところだったわよ? 信仰における金銭の流れは、基本的に、下から上へとさ吸い上げられていくものだから」
「ああ、なるほど、道理で私の暮らし向きが楽にならないわけです。これで勤労者を自負しているのですが」
「それは悲しいわね。美とは後天的にもそれなり以上に購えるもの。富める暮らしは女性にこそ相応しいのにねぇ」
「いえいえ、子供にこそでしょう。さもしさは育ちに起因しますから」
「不信心な言葉かしらね。馬小屋に生まれた神の子を思えば」
冷ややかな会話だ。どちらも、まるで互いに冷たい掌で相手の頬を撫でているかのようだ。
「神の子の誕生、ですか……」
クラリスがいかにも嘆かわしいという風に首を振った。
「なべて出産とは試練です。一人の子が生まれる前後には必ず一つのドラマがあります。女から母へと変わるそれは劇的です。神の子の出産ともなればもはや召命といって差し支えないのかもしれませんが……」
無形の鋭利がクラリスの視線に宿っている。彼女はモイレインを突き刺すように見据えている。
「母となる者の苦しみは子のために支払われるもの。どうして、今、誰もが寄ってたかって彼女を苦しめるのでしょうか」
「俗な欲望を満たす存在だからよ。彼女と彼女の孕むものとが」
にべもなくそう言ってのけて、モイレインはグラスを弄んだ。
形もあって、それは花にも見える。妖しげな一輪だ。ほの暗いオレンジ色の照明を受け止めて、ブランデーがゆらゆらと光彩を波立たせている。
「聖母……ですか」
「正確には聖母と聖杯ねぇ」
「聖杯……? それは……?」
「聖母とはその身に聖杯を宿した者のこと。新旧聖書の解釈について講義するつもりはないわよ? 少なくともそれが常識であり真実なのよ……私たちの間では」
言っている意味は不明瞭でも、私たちというカテゴリーの内容は明らかだ。
不死人だ。不死人のことだ。
どこに巣食っているかで二種に区別してはいるものの、つまるところが不死の化け物でしかないウォーカーたち……その歪んだ常識が語られている。
「……では、聖杯という言葉が表す内容も、私たちの常識とは異なるのですね?」
「ウフ、興味が湧いたかしら? それでこそよ。ここはそういうところなのだから」
いつの間に干していたものか、モイレインはブランデーを注ぎ足した。
「生きることは砂漠を行くことに似る……歩いては乾き、駆けては乾く。誰もが憩い安らぐことを欲しているのに、叶わず、孤影に吹く風の蕭々と鳴る。抱え持つものは痛み……」
歌だろうか。奇妙な抑揚をもって紡がれるその言葉は。
「行きて行く。果ても見えずに延々と。殺伐としては誰かを傷つけ、汲々としては誰かを踏み躙る。心細げに呪詛を口にし、不安げに暴力を手にする。誰も彼もが恐れをなして……」
不死人が人生を歌うとは皮肉に過ぎる。
舌打ちをもって報いようとして……エティエンヌはそれができなかった。モイレインの顔を見たからだ。
深い嘆きがそこに表れていた。
意外に過ぎた。そこには揶揄や嘲笑を予想していたから。
「酒は英知。酔いは潤い。人の苦しみを和らげる……その意味では、このグラスもまた特別の杯ね。対処療法かもしれないけれど」
琥珀色の液体は満ち満ちて、それでも注がれ続けるから、零れ零れてグラスを濡らした。テーブルに水たまりが生じた。
「……聖杯とは、つまるところが、究極の酒杯」
注がれるものがピタリと止まり、グラスにはブランデーが盛り上がった水面を見せている。
「神の子は言ったわ。パンをとって私の体であると。ワインを注いで私の血であると。それが真実どういう意味であったのかを知る術はないけれど……私は聖杯を知っている」
爪の長いひとさし指が、音もなく、グラスの中へと突き入れられた。
「ああ……聖体拝領……特別な血をすすり特別な肉を食んで」
ブランデーに塗れた指を舐める、その舌の何と毒々しいことか!
エティエンヌは己の右手が痙攣したことに気づいた。身体が銃を欲している。
「もう一世紀以上も昔のことよ。私は聖杯より生ずるものを口にし、酔い痴れて、今をこうして生きている……ウフフフ……空で死なずにいるのではなく、地上でしっかりと生きているのよ」
妖言が耳を、芳香が鼻を、それぞれいいように侵してくる。狭い室内では逃れる術もない。
「不死もまた、英知……」
まるで身体の内側から聞こえてきたかのような、その声。
「それは人を救うためにこそ発明された科学技術。医学の極み。万病を退け、老化を除き、死滅を遠ざける……まさに人類の夢。人工の奇跡。生まれ落ちた者が避け難く味わう苦しみを根治させるのだから」
毒だ。これは。耳から入って心を惑わす類の。
エティエンヌははっきりとそう意識し、己の心を硬く引き締めた。
「知っていて? 誰でも簡単に不死になれるという、そのことを」
臓物の色をした舌がぬらりぬらりと蠢いている。
腰のホルスターの中から、硬質の感触がエティエンヌに警告を発している。
「誰かさんたちのせいか、巷では色々と噂されているけれど……何のリスクもないのよ? メタノール入り密造酒の健康被害を見て、ブランデーの豊潤さを否定するのならば……それはあまりにも愚かというものでしょう?」
何を語られようとも、今は激発するべからず。クラリスがいる。
まずは護る。そして討つ。二度と再び不死人のいいようにはさせない。
「さても、ここは泥沼。秘密の地。生きることの苦しみに悶える者たちが辿り着く所……金髪と銀髪の可愛い貴女たちは、どう? 不死に興味はあるのかしら?」
馬鹿なことを問うてくる。
嫌悪感をそのまま表情にしようとして……エティエンヌはそれに失敗した。クラリスの顔を見たからだ。
「フフ……あるみたいね?」
クラリスがモイレインの話に聞き入っていた。かつて見たことがないほどの真剣さで。
そんなことはありません、という言い訳はひどく遠くに聞こえた。
混乱する頭の片隅で、エティエンヌは、先制攻撃の可能性について冷たく思案を始めた。
◆◆◆
「そんなことはありません。ただ不死人の常識を知り得る機会だと思ったのです」
油断してしまった。隙を見せてしまった。
この場においてそれは取り返しのつかない失敗かもしれない……クラリスはそう思えば思うほどに動揺を鎮められなかった。
気をしっかりと持たなければならない。
己の役割をきちんと果たせない人間の末路など、総じて悲惨なものでしかないのだから。
「伺ったお話をまとめるに、修道女の言う聖杯が、不死をもたらすものなのですね?」
「最上の美酒、という意味でね。他にもお酒は色々とあるのだけれど」
修道女は蠱惑的な笑みを浮かべている。
「それは……不死にも程度や等級のようなものがあるように聞こえますが」
「一つの基礎は多くの応用へと派生するでしょう? そういうことよ」
長い舌が艶やかな唇をなぞる。修道女が楽しそうにしている。
「つまり、聖杯とは……」
「未分化の不死をもたらすもの。原初にして最も濃厚なる不死を……ね」
かくも容易く言葉にされる、不死。
まるで嗜好品だ。酒場で語らうほどに気軽で、千と万とありふれていて、すぐそこにある。先の言葉を信じるならば、目の前の人物は不老をも体現しているのだから。
不老不死。
老いず死なずのその間には、病まずという言葉が入っていた。万病を退けると。
欲しい。それが。
どんな病苦をも癒せる力があるのならば、何をおいても、それを……。
「……クラリス」
ビクリと跳ねた。座ったままにだ。肩に触れられたからだ。隣に立つエティエンヌである。彼女の手が肩を鋭くつかんでいる。
クラリスは瞬きを繰り返した。小さく深呼吸もする。
いけない。幻惑されている。秘めたる欲望を刺激されている。
「つまり、修道女たちはそれがために……聖杯を得るために、マリア・ライミスを女子修道院から誘拐したのですね?」
「さあ? どうなのかしらねぇ……」
あやふやな返答だ。今までの応答からするといかにも不自然な態度だが、その妖艶な笑みは崩れていない。むしろより妖しさを増した印象がある。
踏み込むべきかもしれない。
会話の間合いが開いたのならば、より決定的な質問を投げかけて反応を得るべきだ。
「修道院を襲撃したドラゴンと、それを使役する黒衣の男性……お仲間なのでしょう?」
「ウフフ……そうね。一匹と一人は、確かに仲間だわ」
修道女は笑む。唇の端が耳に届きそうなほどに孤を描いている。
「聖杯王を頂とする組織の、ですね? 名前もなき唯一無二の」
「ええ。千年紀の夜明け団、という名前が一応はあった気もするけれど……誰も使っていないわね。定冠詞をつけられる組織といえば聞こえがいいかしら? でも実際は形態の問題よ」
一個人のためだけに組織された集団だから、という呟きには溜息が混じった。
「……王と臣下、ということですか」
「そうね……フフ……古めかしいこと」
「その組織の目的を、修道女は知らないと?」
「知りたくもない、といっておくわ。貴女たちもそうでしょう? 組織の構成員は必ずしも組織の熱心な支持者というわけではないのよ」
辛辣な言い方だ。そして反論もできない。隙を衝くことも難しい。
ランドウォーカーが一枚岩でないことはわかっていたが、それは新十字軍も同じこと、ただ組織の組織たる特徴でしかない。
クラリスとて、今、新十字軍への絶対の忠誠を問われたのならば返答に窮する。
疑問があるからだ。マリア・ライミスに関与することで知り得た新十字軍の術策諸々に。
たとえば両親を亡くした孤児の少女を修道院内に隔離し、人間関係を管理する。
たとえば一人の罪なき少女を繁殖牝馬と呼び、宿敵の前に餌のようにして晒す。
たとえば少女の望まぬ妊娠を重要保護対象とし、出産させるべく保護観察する。
はたしてそれは必要悪といって済まされる行為だったろうか。いや、そもそも……何のために必要な行為だったのだろうか。
銀騎長ピガール・ノワが主導となって推し進められている対スカイウォーカー強硬策は、どこか得体の知れないところがあって、クラリスの胸をざわめかせる。
「聖母の居場所、知りたいかしら?」
使っている化粧品の種類を明かすかのような、その口調。修道女が……不老不死のランドウォーカーが瞬きもせずに見据えてきている。
「……教えて、いただけるのですか?」
「貴女たちの返答次第で……ね」
そう言って足を組み替える様は、先刻の淫らな光景を想起させるよりも先に、鎌首をもたげる大蛇を思わせた。
クラリスは震えた。
向こうがその気になれば、瞬く間に殺される。護衛の有無に関わらずして。今、それがハッキリと感じられたからだ。
「まずは銀髪の貴女に尋ねるわ」
はい、と返事をできたろうか。それもわからないままに聞く。
「貴女、不死に心惹かれていたけれど……それは誰のため? 自分のためではないのでしょう?」
どうしてそれがわかったのか。
どうしてそれを確認するのか。
考えが及ばないままにクラリスは答えていた。
「子供の……私の娘のためです。難病で、ずっと入院していて……」
傍らに立つエティエンヌが驚きの声を上げた。彼女に対して嘘はついていないが、子供がいることは言わずにいたからだ。
「そう……道理で……」
修道女が痛ましいものでも見るかのような顔をした。
クラリスはそれをすら娘を救うための縁になりはしないかと考える。あるいは不死人の未知の技術による薬剤をでも恵んでもらえやしないかと。
そんな自分をクラリスは浅ましいとは思わない。いや、浅ましくとも構わない。
もう一歳六か月になるというのに、チューブにつながれて寝たきりのままのあの子を思う。
まだ一歳六か月でしかないのに、その余命について医師に言及されてしまうあの子を思う。
子の存在は幸せを光輝で満たすが、同時に、不幸せを絶望で満たしもする。
クラリスは心底からの欲求として子のために生きている。異能をもって新十字軍で働くのも軍病院にて我が子が特別な入院治療を受け続けるためである。収入とて治療費に充てている。
より同情を引くために、娘の哀れさを語って聞かせようか。
前のめりになったところで修道女に手で制された。開きかけた口を、閉じる。
「次に、金髪の方……女子修道院の問題児だった貴女に尋ねるわ」
吐息を一つして、修道女はエティエンヌの方へと顔を向けた。口元こそ笑みの形にしているが、その眼差しは真剣そのものだ。
彼女は何を求めているのだろうか。
エイミー・モイレインあるいはアリス・キテラという姓名の彼女は、過去いかなる理由で不老不死の身となり、今どのような目的をもって会話に応じているのだろうか。
「エティエンヌ・ロワトフェルド、貴女は……」
どうして、そんなに恐る恐る話し出す?
聖杯王とその組織をすら批判の対象にしていた高慢さは……余裕は、どこに消えた?
「貴女は聖母の……マリア・ライミスの、何なのかしら?」
抽象的なくせに切実な声音をもってされた、その問い。
「護衛だ、なんて言わないでね。立場や役割が聞きたいのではないのよ。わかるでしょう?」
弱気とまではいわないが、それでもすがるような……祈るような、その問いに。
「私は……」
エティエンヌが即答しない。直情径行にある彼女が。
不死人を前にして感情を昂らせているというわけでもないようだ。むしろ無防備な狼狽を見せている。
用意されていない回答を……心の底からの言葉を、真剣に探しているに違いない。
「……私は、マリアの友達だ」
自分の言葉を自分で聞き確かめているのかもしれない。
「出会って間もないし、喧嘩ばかりで……嫌われているし、嫌うところもあるが……」
何かを見つけ、驚き、徐々に納得していくようにして。
「それでも、私はマリアの友達なんだ。彼女を尊敬しているし、幸せになってほしいと思う」
最後の方は怒ったような口調で、エティエンヌはそう言い切った。
沈黙が生じた。それは居心地のいい静けさだった。
見れば、修道女は笑顔になっていた。
「そう……よかったわ」
修道女はエティエンヌを見て、それからクラリスを見てきた。
「心をさらけ出せる友達と、母になる身の理解者がいた……いてくれた」
その安堵の色は何十年という年月の重み、深みを感じさせて。
「本当によかったわ。マリアが独りぼっちではなくて」
ああ、この女性は。
クラリスは背もたれに身を預けた。自ずと緊張はほぐれ、呼吸も楽になった。
誰かの痛みを理解し、心配し、思いやれる人物ならば大丈夫だ。たとえ不老不死の敵であれ、きっとわかりあえる。いつかは全てが平和な形に折り合いがつく。
そう信じた。信じたいままに。
そして祈った。心の底から。
夢や希望が時に絶望の苗床にもなることを、クラリスはよく知っているから。




