不死に至る病・Ⅱ
あの夜、ドラゴンはマリアを乗せて南へと飛び去った。その場でこそ取り逃がしたものの、新十字軍の情報網は敵の潜伏先に当たりをつけた。
この機をいかし、マリアの奪還を最優先としつつも、敵の正体を探らなければならない。
だから、エティエンヌはここにいる。
バラ色の町、トゥールーズ。
そう呼ばれる理由は市街の建材として赤レンガが多用されているからだ。夕焼けも待たずに四六時中、町中の屋根や壁が暖色に染まりきっている。
「バラというよりは、火だな。戦火の類かもしれない」
古代の名残りをそこはかとなく残す旧市街……その大通り沿いのアジアンフード店で、エティエンヌは軽食を取っている。メニューは魚介の切り身を乗せた一口大のライスボールだ。
「治安が悪いのも頷ける。何か落ち着かない気分にさせられるからな」
素直な感想を述べたものだが、テーブルの向かいに座るシルバーブロンドの上役は感心しないといった風に首を横に振った。口元まで摘み上げたヌードルを戻してまでである。
「赤色で興奮って……エティエンヌ……貴女、闘牛じゃないんだから」
「どういう意味だ。クラリスだってここは居心地が悪いと言っていたじゃないか」
「色は関係ないわよ。土地の歴史が、少しよくないものを見せるの」
「それは……透視でか?」
「ええ。大きな戦いの舞台となったし……古い都市には何かと暗い過去がつきものなのよ」
「不便なことだな……古戦場など今日日どこにでもあるだろうに」
「そうね。でも、拷問や虐殺の現場はありふれてないから……」
掠れた溜息を吐いて、クラリスが遂にチョップスティックを置いてしまった。殆ど食べていない。顔色も優れない。それは今回に限った話ではない。
「……ここは私に任せて、クラリスは車で待っていたらどうだ? サイモンを護衛にして」
「そういうわけにもいかないでしょ。恐らくは私のことをご指名なんだし……」
エティエンヌらがトゥールーズ入りして間もなく、宿泊先とした新十字軍事務所へ一本の電話連絡が入った。欧州に広く影響力を持つマフィアからだ。
『異能の騎士にならば提供できる情報がある。オーギュスタン美術館にて待て』
それは一方的な指示ではあったが、不鮮明ながらもドラゴンの写真映像をファックスで送りつけられては無視することなどできなかった。
「……場所も偶然とは思えないしね。待ち合わせ時間まで粘りましょ」
「わかった。マフィアは社会の陰裏を知る。犯罪者風情と馬鹿にはできないのかもしれない」
言ってエティエンヌは周囲を見渡した。
車はまばらだが通行人が多い。トゥールーズほどの大都市ともなれば行き交う者の身なりも多種多様で当たり前だが、それにしたところでこうも雑多な印象を覚える通りは稀だ。
「異邦人通り、か……ホテルが多いというわけでもなしに」
地域警察のレナルド・M・ギャバン刑事からの情報によれば、大通り沿いのこの辺りでは身元不明の人間がよく見かけられるという。それはそのままに不審者が多いという意味だ。
ここには怪しい人間を引き寄せる何かがある。
ギャバンは言っていた。マフィアの犯罪を探るのならば新市街の酒場通りを、異邦人による犯罪を探るのであれば目の前のこの大通りを探れと。
「もしかしたら、ここで私に何かを透視させたいのかもしれない……」
その声は見過ごせない響きをもってエティエンヌに聞こえてきた。
クラリスの目は焦点を失っていて、どこを見ているとも知れない。
「スカイウォーカーもランドウォーカーも、人間に紛れてしまえば区別が難しいわ。雑踏の中から見つけ出そうと思ったら私の力が役に立つ。不安定なレーダーではあるけど……それでも、何かを察知できれば……!」
「それはそうだが……」
無理はするなと言いかけて、言わず、エティエンヌは頷いた。
「……いや、その通りだな。やることを選べるほど、私たちには余裕がない」
祈ることはしない。ただ人事を尽くす。
近くの路上にはサイモンが車を停めているし、オーギュスタン美術館の中へはデヴィッドが先行して安全を確かめている。他にも新十字軍の人員が動いているだろうし、ギャバンもまた警察として独自に情報収集を続けているはずだ。
「マリア……」
思わずその名が口をついて出た。
あの夜、エティエンヌはマリアを護れなかった。三体の怪物と一匹のドラゴンに阻まれてマリアの部屋にまでたどり着けなかった。
そして黒衣の男……スカイウォーカーと同等の力を持つランドウォーカーの一人によってマリアは誘拐された。
そっと腰の拳銃に触れる。亡兄の愛銃であり、今は己の恃むべき得物であるところのスプリングフィールド・オメガに。
弾丸は届いた。負傷もさせた。そうなればあとは工夫次第だ。
銀騎長ピガール・ノワは言った。不死人とて滅ぼせると。彼奴等は確かに死なずの化け物ではあるが、その不死性には個体差があるし、どの個体とて首を落とすなり身体を四散させるなりすれば活動を停止する。死と近似の終わりをもたらすことはできるのだ。
服越しに暴発防止装置を指でなぞる。
一撃だ。十ミリオート弾を急所に命中させればいい。
本物の天使や悪魔だとすれば、それが通じるかはわからない。しかし不死であれ科学を根拠とする物理的な存在ならば話は簡単だ。
命の価値など、突き詰めれば体重に比例するものでしかないからだ。
軽ければ小口径で済む。重ければ大口径が必要となる。いずれにせよ弾丸は破壊するのみだ。銃弾による死は冷徹を極める。無慈悲で、善も悪もない。
「エティエンヌ、大丈夫?」
クラリスが覗き込んできていた。
「何がだ。大丈夫に決まっている」
「そう? そんな顔をして銃を触るって、あんまり大丈夫な人には見えないんだけど」
「ちょっとした手慰みだ。気にしないでくれ」
「え、ちょ……ててて手慰みとか……」
「……クラリスはどうしてそんなにいやらしいんだ?」
「か、可哀想な子を見るような目で見ないで! 何なの!?」
愚にもつかないやり取りは、果たしてどちらにとって必要なものだったのか。グリーンティーが冷める頃には、互いに肩の力が抜けていた。美術館の方を見る。
「エティエンヌ、念押ししておくけど、乱暴は駄目よ。マフィアとの交渉は私がするから、貴女は挑発されても我慢してて。噛みつこうとしたらリード引っ張るからね?」
「……言いたいことが色々とできたが、とりあえず、いっそ暴れてやろうかと思ったな」
「そしたら私、倒れるからね」
「おい」
「それで止まってくれないようなら、もう誰が何人がかりで止めたって無駄でしょ。本気になったエティエンヌと対抗できる人間なんて、新十字軍の中でもちょっと思い当たらないもの。闘牛とレスリングして勝てるかどうかって話だもの」
顔色の悪さを化粧で誤魔化しているだけのくせに、この友人はいっかな口が減らない。ここは一つ、拳骨でもって制裁を加えてやるべきか。
エティエンヌが拳を握ったところで、クラリスの雰囲気が一変した。
背筋を伸ばし、凍りついたようになって……二つ瞳を真円のように見開いている。来た。透視だ。超常の感覚の発現だ。
「あ、うあ……これ、は……」
どこを、いつを、何を見ている?
耳を澄まさなければならない。呟きを聞き漏らしてはならない。
蠢く人の群れに美術館の赤壁が圧し掛かってくるかのような今この場で、超常の知覚が捉えたものとは何だ? 敵ではあるだろう。しかしどんな敵だ?
「……おお、かみ……はい、いろの……」
「灰色の狼だと!?」
それは既知の言葉だ。六体の怪物に襲われ壊滅した兵站基地において、クラリスはそう呟いた。
周囲へ視線を走らせる。
文字通りの獣などはいない。しかし誰も彼もが怪しい。灰色を探す。あの初老の男の髪色か。それともあの少女のシャツの色か。あるいは目に映る色ではないのか。
鐘の音が空を覆った。
それはすぐ東の大聖堂から届いたようだ。エティエンヌという名を冠するそこから、まるで待ち合わせの刻限を知らせるかのように……どこか霊妙な響きをもって。
「……事情が事情だ。私だけで行くよりないな」
エティエンヌの腕の中でクラリスは意識を朦朧とさせている。まだ何かモゴモゴと口を動かしているが、それはもう聞き取れやしない。
「言いつけは守る。挑発されても暴れない」
華奢な彼女へ、込み上げる戦意を隠し切れないで告げた。
「だが……私は痛感してもいるんだ。先制攻撃の必要性を」
◆◆◆
どこもかしこもが古錆びていて、それら何もかもがエティエンヌには馴染みがある。この美術館は元は修道院であった建物を利用しているからだ。
見学者は疎らで、その代わりでもあるまいに回廊にはガーゴイル像が何体も建ち並んでいる。口を開け天井を見上げるその様は滑稽だ。無防備無警戒に急所を晒している。
「奥のゴシック彫刻展示室です」
「了解した」
何気なくすれ違ったデヴィッドと囁くように言葉を交わした。
中庭の方へ首を向ければ、これも見慣れたような庭園の向こう側に、奇妙な気配が感じられる。
建物の構造と位置関係を頭に入れつつエティエンヌは進む。弾除けたり得る壁や柱もチェックしている。彫刻群は主に土台が盾になりそうだ。
いつしか辺りには誰もいなくなった。
ただ一人、重厚なダークグレーのスーツに身を包んだ老人を除いては。
「灰色の服……いや、まさかな……」
老人はエティエンヌへ背を向けたまま展示物に見入っている。
その佇まいには戦う者の剣呑さといったものは感じられず、むしろどこかしら敬虔な気配すら漂わせている。見ているものが聖母子像だからだろうか。
「お前がマフィアか」
エティエンヌは問いかけたが、老人は振り向かなかった。
「……かつて騎士とは勇猛の証として読み書きを習わなかったという」
是か否かの返答もなしに、老人は語り始めた。
「かくも素晴らしき美術品に囲まれたとて、まるで意にも介さず軍靴を鳴らし早歩くとはな。新たなる十字軍を名乗るだけのことはあるということか。粗野で教養がなく、周囲への配慮に欠ける」
チラと肩越しに目線を寄越して、これ見よがしに溜息を吐いた。
「まるで野獣だ。そういう意味での異能を呼んだわけではないのだがね?」
「何だと!」
瞬時にみなぎったその力を、手や顎の力として消費する。耐える。出会い頭に激昂してしまってはクラリスへの申し訳が立たないからだ。
「フゥム……躾は甘いが飼い主ありか。独り立ちさせるための試練としてこの場が選ばれたのだとすれば迷惑な話だ。新十字軍の責任者は……欧州では銀色の方が融通が利くかな」
老人がゆっくりと振り向いた。ひどく疲れたような、あるいは人を見下したような表情をしている。白いあごひげを撫でさする様が妙に仰々しい。
「御託はいい。用件を話せ。犯罪者が勿体ぶるな」
「名乗らず名を聞かず、か……何とも犯罪者めいているな」
「……情報がないのならこれまでだ。年寄りと言葉遊びをするほど暇じゃない」
「果敢なことだ。ならば去るがいい。これで私も、噂の千里眼と会えず落胆している」
落ち込んだ様子などなく、老人の口調は淡々としたものだ。
去るべきか。それとも無理にも情報を聞き出すべきか。
クラリスを思い、マリアを思って……エティエンヌはその場に留まった。
「事態が事態だ。時間が惜しい。情報があるのなら速やかに提供することを要求する」
「……速き者とは迷いなき者だ。そしてそれには二種がいる。決断した者と決断するまでもない者だ。お前は後者だな。視野が狭く選択肢がないのだろう」
老人はやれやれとばかりに首を振り、スーツのポケットへと手を入れた。
「待て。ゆっくりと手を出せ。さもなくば安全を保障しない」
「写真を見せてやろうと思えばそれか」
「何にせよだ。警告はしたぞ。私の手は既に銃に触れている」
嫌味なほどにのんびりと差し出されたのは言葉の通りに一枚の写真だった。隠し撮りだろうか。ガーゴイル像の並ぶ回廊を黒衣の男が歩いている様子が写っている。
「この男は……!」
「ホォウ? 見覚えがあるとなればお見逸れしたものだ。まさか新十字軍のドラゴンスレイヤーがうら若き乙女だったとは」
老人は肩をすくめ、両の手を広げた。芝居がかった仕草だ。
「騎士エティエンヌといえば実に哀れな殺され方をした男として記憶しているものでな。不死人でなし、同名の愚直な男をイメージしていたのだよ」
「貴様……何を、どこまで知っている!」
「まずは自問するといい。己は何をどこまで知っているのか、とな。それをして初めて人に問うことができる。さもなくば誰かに利用されるだけだ」
「のらりくらりと、訳のわからないことばかり……!」
「わからないことをわからないと認める。それが現実的に生きるということだ。おめでとう。お前はわずかの間に成長したようだぞ?」
老人の目付きにも言動にも明らかな侮蔑がある。
エティエンヌは拳を握れども殴りかからなかった。チームワークを思えば暴走はできない。
「どうしたのかね? お前は新十字軍の騎士なのだろう? 大概のことは裁かれず許される立場にいるのだぞ? やりたいようにやってみてはどうかね?」
老人は愉快そうに目を細め、口の端を歪ませている。そこには軽蔑がある。
しかし不思議と敵意は感じられなかった。それはつまり、この態度は頭ごなしのものではないということだ。敵対するつもりもなく出会い、何かを失望させて、このようなことになっている。
「……非礼が、あった。すまない」
声と頭とを低くした。
「この男は一人の少女を誘拐した。我々は少女を救出すべく動いている。彼女のためにもどうか情報を提供してほしい。新十字軍は、その協力に対し相応の報酬を支払うだろう」
奥歯を噛み締めたとて、声の震えは抑えきれなかった。それでも取るべき態度と言うべき言葉は弁えていたから、それを実行したのだ。
「フゥム……ドラゴンスレイヤーのお辞儀か。まあ、いいだろう。そういうことであれば、誠意をもって情報を提供しよう。細心の注意を払い、今、お前に必要であろう情報をな」
落ち着け、これは任務だ。必要な我慢だ。
己へ言い聞かせつつ、エティエンヌは老人の言葉に耳を傾けた。




