不死に至る病・Ⅰ
来る……尋常を遠ざける夢幻の霧の向こうから、何かが迫っている。
一つではない。複数だ。のべつ幕無しに見せつけられるそれらは、きっと名も知らぬ誰かの、いつとも知れない記録群。
初めに見えてきたのは雪の一片だ。雪原に設営された幾つもの三角錐はテントだろうか。
一発の銃声が響き渡るなり、そこは銃火の荒れ狂う地獄と化した。
死だ。
死だ。
酒気を帯びた殺意が吹き荒れて、白銀の世界に死が刻まれていく。
撃たれ倒れていく者たちは褐色の肌をしている。多くの者が白い衣服をまとっている。しかし等しく血の色へと沈んでいくよりない。老いも若きも男も女も、誰も彼もが殺されるのだ。病人であろうと乳飲み子であろうとお構いなしだ。
虐殺だ、これは。
何百もの命が残酷非情に散らされてしまった。
それでも種火のように残った子らがいる。彼ら彼女らが命を繋いでいく。雪原に散った者たちの思いが血に宿り伝わっていく。
幾代を重ねた後のことか……一人の屈強なる男が白いシャツに腕を通した。
抜けるような青空の下、厳ついその手を土塗れにして花壇の手入れをしている。色鮮やかな草花に囲まれて、満足そうに笑んでいる。
しかし、その腰にはトマホークを忍ばせているのだ。凄まじの威力を秘めて。
次いで見えてきたのは、一粒の宝石だ。
宝石で飾られた宝石箱へとそれは戻される。目くるめく金銀財宝の内の一つと化す。そして新聞紙をかぶせられた。優美な手により無造作に、面倒くさげに、鬱陶しげに。
その手はビーカーやフラスコの方を好むようだ。
並び立つ試験管の中には色とりどりの液体が透明な輝きを放っている。それらは振られ、混ぜられ、熱され、冷やされ……次々に数を増やしていく。ごく些細な違いを大仰に貴ばれて。
美しい手を助ける逞しい手があった。作業を手伝い、疲れを労い、寄り添うようにして動く手が。
いつしかその手は消えて、代わりに痩せぎすの手が現れた。任務を引き継いだわけでもあるまいに、先任者と同じようにして美しい手を助けて……やはり消えた。そして後任者が現れる。
何度そんなことが繰り返されたろうか。
美しい手はいつも新たな宝石を手に入れては、ぞんざいに片づけ放置していたが……いつの頃からか、かぶせる新聞の内容に過激なものが交じり始めた。
魔女を裁け。魔女を裁け。男をたぶらかし、財を掠め取っては毒殺する魔女を、裁判にかけて燃やしてしまえ。
美しい手は逃げ出した。田舎から都会へ逃げ、地上から雲上へ逃げ、明るきから暗きへと逃げて……そして。
無邪気なる女の園で、独り、血の色の酒を飲むのだ。恐るべき鞭をその手に隠し持って。
他にも多くを見た。
いや……多くの悲劇を鑑賞したというべきか。
どの一人にも種類こそ違え数奇な来歴があり、何かしらの意味があった。荒波にもまれる小舟のような人生もあれば、氷原に為す術もなく転がる小石のような人生もあった。あるいは千差万別に不幸であることが人生の真実なのかもしれない。
ただし、共通点もあった。死なない。どの一人にも死という終わりがない。
そして武器を持つ。とてつもない破壊をもたらすに違いない、形状様々なれど同質の武器を。
ああ、また……今度の一人が持つ武器はステッキだ。
やはりか、この男も波乱万丈の人生を送ってきている。
しかしその詳細は見えてこない。ただ漠然と戦いの歴史が感じられるばかりだ。刃物で、火器で、毒物で、財貨で、権力で……ありとあらゆる手段をもって闘争が行われたようだ。
そして、袖をまくり上げた左腕が見える。右手には注射器が構えられている。淡い黄色の液体を湛えている。
「不死化ウイルス……」
男の声色は絶望のその色だ。平坦で生気がない。
「こんなもので、いとも容易く、死が遠ざかる。多少食生活が変わるより他には、何の副作用もありはしない。生に飽いたその時には死ぬための手段もある。アフターサービスも完璧だ」
注射針が皮膚に触れた。
「滑稽なものだ」
針が震えている。刺さることなく、フルフルと。
「こんなもの一つで、人間社会は滅茶苦茶になってしまった。倫理も道徳も……宗教も……何もかもが価値を失って……人が死んでいく。死後を無くす手段が、却って、人を殺していく」
遂に刺さった。
「命とは……尊厳とは……」
しかし中身を……光を返して黄金色にも見えるその液体を注入しない。震えは止まらない。
「……喜劇、ということか?」
ピタリと震えが止まった。
「世界とは、その程度のものということなのか?」
時が凍りついたかのようだ。
「そうかもしれない……いや、そうだ。そうに決まっている」
声が震え始めた。
「それなら、納得できる。こんなにも苦しんで苦しんで……それでもまるでどうにもならなくて、惨めで、満たされないで……それは、つまり、生き方が根本から間違っていたからなのか!」
焦ったように言い募って、男は遂には笑い始めた。
「アハハハハ! そうだ! そうだ! 喜劇だ! そうと気づいてしまえば、なるほど、この世界は随分と愉快にできている! 苦しむだけ阿呆ということだ! 何て馬鹿馬鹿しい! 楽しんだ者勝ちということだ! 何て清々しい! クハハハハハ!」
グイと力が込められて、注射器はその役割を達成した。
血に血でないものが……いや、血に類する何かが混じっていく。凄まじの勢いで何かが変容していく。そんな現象が腕の内側に生じて……視界が切り替わった。
見知った少女がいる。
金色の髪を短くして、紫色の瞳に強い光を宿す少女だ。凛々しく勇ましく猛々しい騎士だ。
戦っている。
必死の形相で。戦意をたぎらせて。右手には拳銃を握り、左手にはコンバットナイフを握って。
強い。少女は目を見張るばかりの強さだ。天賦の才を不断の努力でもって磨き抜いたから。
しかし少女は人間で、この男は人間ではない。元人間の化け物だ。
逃げて。
ステッキが突き出される。
逃げて。今すぐに。
弾丸も鋼刃も対抗できるはずがない。そのステッキは恐ろしい武器なのだ。
駄目だ。声は届かなかった。少女は逃げなかった。ステッキは避けられなかった。少女の目が驚愕に見開かれている。
ああ……胸にそんなにも大きな穴が開いてしまっては……もういけない。
復讐心に囚われてなお眩しいばかりに魅力的で。直情径行的ではあれどもひたむきで凛々しくて。大好きな大好きなその少女が……死んでしまう。
私は彼女の名を叫んだ。
◆◆◆
激しく咳き込む音がしたから、クラリスは目を覚ました。
長椅子での仮眠は思いの外深く長いものとなっていたようだ。タオルケットが腹から床へと落ちている。窓からは西日が差していて、テーブルや観葉植物の落とす影も濃い。
寝惚け眼で見やると、コーヒーカップを片手にエティエンヌが何やら苦しんでいる。
「よかった……夢だ……」
そう呟いたところへ、恨みがましい目が向けられた。
「何もよくないぞ、クラリス。脅かすな」
エティエンヌの口元は濡れているし、赤く腫れてもいる。熱いコーヒーだったようだ。
「は? 何が?」
「何がって……いきなり名前を叫ばれたら驚くだろう」
「名前? 私が?」
瞬きをするたびに夢と現との区別がついていく。理性が記憶を整頓していく。
しかしその一方で忘れてはならない何かが失われていくから……クラリスは首を傾げた。目の端に集まった涙の意味がわからない。
「寝言なら寝言らしく、ムニャムニャだのウーンだのと、大人しく呟いてくれ」
「何それ、コミックみたい。エティエンヌもそういうの読むのね」
「……『エティエンヌ』はコミックなんて読まない。そんな暇はない。お前が昔の名前を呼んだから、昔の記憶が思い出されただけだ」
忌々しげに言うから、クラリスは少し笑ってしまった。
「からかったわけじゃないわ。別に何を読んだっていいと思うもの。そんなところまでキリキリしてたら、夢を見るのも疲れちゃうじゃない?」
「……そんな顔をして、言われてもな」
エティエンヌは手振りでコーヒーを飲むかどうかを尋ねてきた。頷く。給湯所へ向かったその背へ手を振って、クラリスはもう一度長椅子に身を横たえた。
このところまともに睡眠がとれていない。
生まれ持ち慣れ親しんだ透視の力……それがかつてないほどに強く働いているからだ。
「スカイウォーカー……空の不死人かあ。天使みたいだったな」
修道院の礼拝堂へ翼持つスカイウォーカーが現れたその時、クラリスは同じ敷地内の塔にいた。上階で窓のカーテンも開けず、己の非科学的な感覚を研ぎ澄ませていたのだ。
果たしてクラリスは多くを感知した。
スカイウォーカーたちが憂いて話し合う、雲上カタコンペの風景をすら垣間見た。それは清潔で穏和な国際会議といった様子であった。翼を生やした者など一人二人しかいなかった。
「見た目は人間と変わりないのにね……」
修道院にスパイが潜入しているかもしれない。透視結果からクラリスはそう判断した。
銀騎長ピガール・ノワはすぐにも対応策を講じた。戦闘準備を進めていた三個大隊の中から修道士中隊を抽出し、修道院周辺の警備にあたらせたのだ。明確な示威行為である。
また、エティエンヌの指揮下へも一個小隊を配した。そのメンバーの中に己の息のかかった一名を交ぜて、である。
「今もまだわかってないだろうなあ。エティエンヌ、純真だから」
「何の話だ?」
扉を開けるタイミングに合わせて発言したから、エティエンヌがキョトンとした。手には湯気の立つコーヒーカップを持っている。
「んー、誰が敵かわかったもんじゃないって現実?」
「馬鹿にするな。ちゃんと理解したとも。私の敵はスカイウォーカーだけじゃない。ランドウォーカーもまた敵だ。空にいようが地上にいようが、ゾンビはゾンビだからな」
「それはまたざっくりとした受け止め方ね……」
コーヒーを受け取る。インスタントでは香りを楽しめないから、ただ苦味を求める。
「ランドウォーカー……地の不死人かあ。悪魔みたいだったんでしょ?」
「服装は黒かった。シャーロック・ホームズか何かに出てきそうな恰好だったな」
唸るように息を吐いて、エティエンヌが虚空を睨みつけている。
「マリアを誘拐したからには、あれは敵だ。どんな見た目だろうが関係ない。どこに生息しているかも考慮に値しない。そもそもだ。生きて、そして死ぬ。それが生き物である以上、そうでない奴ばらをどうして許容できる?」
「うーん……何だか少し東洋風な考え方にも聞こえるけど……魂の不滅とかは信じてない?」
「私は天国を知らない。復活した者を見たこともない。だからまだ考えるには及ばない」
「それはまた凄いざっくり感……エティエンヌらしいけど、あんまり大っぴらには言わない方がいいかも。特に金騎長の前でとか」
「もう聞かれたことがある。聖書を読めと言われたよ」
その叱られる光景をイメージし、クラリスは笑ってしまった。
金騎長ジャック・D・コナーは五十絡みの風格ある男だ。エティエンヌを叱る様は、きっと校長先生とやんちゃな生徒といったものであったろう。
「女子修道院での写本もコナー金騎長の差し金なんだろう。ノア銀騎長の考えだとは思えない」
「さあ? 何にせよ学習に時間を費やせることは素敵だと思うけど?」
「自分のための時間を許されるのなら、訓練に当てたかったよ……」
「長所を伸ばすのも大事だけど、短所を補うのも大事よ? たとえば教養とか」
「余計なお世話だ。聖なる文言を引用できなくたって、私にはわかるぞ。不死は撲滅すべき疫病だ。人間社会に不幸しかもたらさないものだ。ゾンビ禍がその証左だろう」
「……そうね。確かに歴史が証明しているわね」
「そうだとも。だから、スカイウォーカーもランドウォーカーも、区別なく滅ぼしてやるさ」
そう宣う彼女の額には縫合手術の跡があるし、首や袖口からは包帯も覗いている。
「エティエンヌ……貴女、その怪我で本当に戦う気なの?」
「ギブスもサポーターもしている。関節技の応酬にでもならない限り、全く問題ない」
「銃を撃つのだって、反動が響くでしょ?」
「痛みは我慢すればいい。動くかどうかだけが問題だろう?」
言うなり、エティエンヌは左手をナイフに見立てて鮮やかに翻した。
彼女の骨折は左半身に集中しているが、その動作にやせ我慢をしているような様子はない。
それでも言い知れぬ不安を覚えて……クラリスは眉を顰めた。
「エティエンヌ、確か、貴女が戦った黒衣のランドウォーカーって……」
言いかけたところでノックの音がした。
「デヴィッド・G・ダイソン修道士であります。上級騎士クリストファー、車の用意ができましたことをご報告いたします」
「ありがとう。すぐ行きます」
ドア越しに応答してから、クラリスはエティエンヌを見た。
早くも戦士の顔になっている。束の間の休息を惜しむところなど欠片もなくて、ただ敵を追うことだけを欲している。解き放たれることを待つ猟犬のように。
「……目付き、怖いわよ? 街中でいきなり発砲とかやめてよね?」
「チームリーダーはクラリスだ。指示には従う。だが状況次第では事後承諾の形もとる。私はお前の護衛でもあるんだからな」
「はいはい、きっちりバッチリ護ってね。いつもみたく」
「ああ。何が襲ってきたところで、必ずだ」
エティエンヌが扉を開ける。廊下を先導する。階段の存在を忠告する。まだ新十字軍の施設内だというのに、過剰なまでのエスコートを実施する。
クラリスは何も言わず、ただされるがままに任せた。そうしないではいられないエティエンヌへと明るい笑顔を向けながら。
「クラリス、お前……」
「ん、なあに? エティエンヌ」
「目の下の隈、酷いな。化粧で誤魔化さないのか?」
「うっせーし! 車中でやるし!」
「そうか。まあ、今回は装甲車じゃないからな」
外へ用意されていたのはダークブルーの一般車両だ。
黒い肌のデヴィッドが直立不動で待機しているその一方で、運転席では白い肌の運転手がだらしなくハンドルに顎を乗せている。
「エティエンヌさあ……彼、本当に凄いの?」
「ん? サイモンのことか? 凄いぞ、あの男は」
「何が凄いの? 態度?」
「ここぞという時の決断力だ。運もいい。そういう兵士は貴重なんだ」
「ここぞねぇ……まあ、ドラゴンを相手にして生き残ったってところは、貴女と一緒だけど」
挨拶を交わし、乗り込んだ。車中の四人が特別チームの主要メンバーとなる。
「それじゃ、行きましょう。現地では地域警察が協力してくれます。まずは警察署へ」
チームリーダーは、上級騎士クラリス・F・クリストファー。
「ギャバンさんか……もういい加減定年だと思っていたが、まだ在職中なんだな」
その護衛として騎士エティエンヌ・ロワトフェルド。
「御二方のお知り合いということなら、色々とスムーズに話が進みそうですな」
戦闘及び調査要員として修道士デヴィッド・G・ダイソン。
「夜の捜査とか楽しみっすねえ。無垢で清らかってのは満喫しましたし、次は別な趣向で」
戦闘及び運転要員として修道士サイモン・B・ヤング。
以上の他にバックアップ班が別に待機する形だ。
そしてその任務は、黒衣のランドウォーカーにより誘拐された重要保護対象『繁殖牝馬』ことマリア・ライミスの捜索と奪還である。
「エティエンヌ、やっぱりこの運転手、どうかと思うんだけど」
「足の火傷は運転に支障のない範囲だったようだ。問題ないと思うが」
「外身じゃなくて中身の話よ……あ、内臓の話とかしたら本気でメンバーから外すから」
「うへぇ! さすがっすね、上級騎士。これが噂の霊能力ってやつっすか!」
「お前の馬鹿さは丸出しということだ、サイモン。もう大分考えてから物をしゃべった方がいい。精神的なストリーキングを目撃している気分になる」
「あら、上手いこと言うわね、ダイソン修道士。殴りたくなるのよね」
「何か横からも後ろからも酷ぇこと言われてる気がする! 騎士、騎士、ここは援軍を!」
「む? 丸出しにしていたのは事実だろう。女子修道院の中庭で立ち小便をしたのだから」
「げぇ!? いや、騎士、それをこのタイミングで……!」
「エティエンヌ、エティエンヌ、どうしてこの破廉恥をチームに推薦したの?」
「だから、さっき言ったろう。いざという時のだな……」
賑やかに話しつつも、各自その身に拳銃を帯びて。
車は走る。一路、地域圏首府であるトゥールーズへ向けて。




