悪魔来たりて・Ⅴ
空中に黒衣の男が立っている。その手に引かれる形で、マリアもまた窓辺から夜へと足を踏み出している。
エティエンヌは瞬時に怒りを覚えた。気づけば吠えていた。
「マリア! 今助ける!」
二人の距離が近い。ベネリ散弾銃を肩掛けにして腰のスプリングフィールド・オメガを抜く。スライドを引いて照準するなり即座に発砲した。それを躊躇う余地はない。
黒衣の男の肩口が弾けた。血肉が飛び散った。骨も砕いていよう。
さもあれ、スプリングフィールド・オメガの放つ十ミリオート弾はマグナム弾にも匹敵する威力を持つ強力な弾丸だ。弾頭も重い。人体に命中したならば破壊せずにはおかない。
しかし男はマリアから手を放さない。
物も言わず次弾を発射する。諸事は打ち倒した後で考えればいい。
「お見事です。超常の存在を前にしてその速断、人間にしては見所があります」
弾かれた。何か透明な壁にぶつかって。
男がステッキを向けてきている。それで防弾ガラスを支え持っているとでもいうのか。
三発目。やはり防がれた。必殺の弾丸が夜空へと飛び消えていく。
「しかし何とも無粋な登場の仕方です。回廊を歩み我が竜に挑戦すべきところを、裏手をネズミのように走り来るとは……ルール違反ですよ?」
黒衣の男は肩をすくめて吐息した。傷がなくなった!
いや、まだ少し不自然な動きだろうか。それにしたところで急速に回復しつつある。身体だけではない。黒衣もまた影が伸びるようにして元通りになろうとしている。
「ペナルティとしては……そうですね……胸の肉を幾らかいただくことにしましょうか」
男は手袋にも関わらず指をパチリと鳴らした。
「ああ、ここには聖母こそおられますが裁判官は不在です。血も余すことなく頂戴しますよ? それも一ポンドといわず、食欲の赴くままに」
壁が爆発した。燃焼によってではなく、純粋なる物理的な衝撃によって。
ドラゴンだ。戦車よりも圧倒的なそれが寄宿舎の壁を突き破り現れたのだ。
赤色に灯る三つ目が獲物を狙いを定めている。煙のような息が夜気を熱し、牙の並ぶ大顎がザラリと凶悪に開かれた。
そして迫り来る。速い。
「くおっ!」
エティエンヌは寸でのところで跳び避けた。地へ転がり、勢いをそのままに低く駆ける。まるで四足の獣のようにして。
そこへ強靭な前足が振られた。鉤爪が襲い来た。
「おおお!」
かいくぐる。懐へ跳び込む。熱い。鉄鱗の横腹がすぐ側だ。
右手のスプリングフィールド・オメガを左手へパスする。右手は肩掛けのベネリ散弾銃のグリップへ。左腕の肘を支えにして構える。
発射するのは単発弾だ。十二ゲージのサボット弾……それを至近距離で。
「ぉあああああ!!」
叫ぶ間に七発を撃ち込む。発射の反動を利用したセミオートマチック機構がそれを実現する。
黒い鱗がひしゃげ、幾枚かが弾け飛んだ。その内の一枚が額を鋭くかすめた。血が散る。
それでも瞬きもしないでいたから、それを察知できた。
ドラゴンの巨体がそのままに急接近してくる。体当たりというよりは事故や災害であろう、鉄鱗の壁の衝突だ。
エティエンヌは回避を諦めた。
「があっ!!」
身をひねり、踏みつけるようにして鉄鱗の腹を蹴った。靴の底で防ぐという発想だ。しかし体重差は考えるのも馬鹿馬鹿しいほどだ。吹き飛ぶ。
天も地もない錐揉み状態の中でベネリ散弾銃を捨てた。頭を護って衝撃に備えた。
「ぐっ!?」
落ち、転がって、うつ伏せになった。すぐにも敵を確認する。
ドラゴンが翼を広げている。大きい。飛膜は赤黒く火災を体現しているかのようだ。その上方には黒衣の男がいる。マリアを連れて、夜空へ佇んで。
「素晴らしい! 素晴らしい戦闘センスです! まるでコミックヒーローのようでした!」
荒ぶる鼓動が全身を打ち鳴らす中、乾いた拍手の音を聞く。
エティエンヌは地に這いつくばったままでいる。身を隠せずとも意図は隠せるからだ。
「ネズミのように駆け、サルのように跳び、ヒトの健気で銃を撃つ……実に愛嬌があります。思わず餌をあげたくなりました。聖母を迎えるそのついでに、ペットを一匹増やしてみるのも面白いかもしれません」
左胸に痛みがある。呼吸の度に痛む。肋骨にヒビが入ったか。腹の下でスプリングフィールド・オメガを右手に握り直す。
当たれば効くのだ、これは。どう当てるかが問題だ。
「おやおや、どこか怪我を負ったのですか? お腹が痛いのですか? それもまた一生懸命でいいですね。つきつめれば、敬虔さとはそのように上位者の前で苦しんでみせることです。悪趣味なこととは思うのですが、歴史と伝統がそう教えるのですから仕方がありません」
クスクスと嗤うその声に油断の一瞬を計る。あのステッキが未知の兵器である以上は、使い手の方を把握する方が早く確実だ。
「おかしな話です。この世界はひどく愉快にできていますから、楽しむ分には充分でも、苦しもうとすると滑稽で恰好がつかないというのに」
何だ? マリアが靴を緩やかに動かしている。幼子が水たまりで遊ぶような所作だ。
床か。あのステッキは透明な床を形成しているのか。
それで二人はそこに立てる? 床が広がったから弾丸が弾かれた?
「ああ、道化の心意気というものもありましたね。わかります。死んだこともない者たちが実しやかに死を語り死で脅すコメディときたら、痛快無比ですからね。そんなもので騙す方も騙される方も、つまりは笑われるために頑張っているのでしょう? 大いに笑いますとも、ええ」
この位置この角度からでは無理だ。撃てども通らない。
どうする? どうすれば撃ち落とせる?
「新十字軍の騎士よ。素敵な見世物の御礼として、一つ忠告しておきましょう」
注目された。厄介な。阿呆のように夜へ弁舌を打っていればいいものを。
「余計なことはせず、大人しくしておきなさい。幸福なままでいたいのならば」
見抜かれたか。もう我武者羅に発砲するよりないのか。
「貴方がたが何をせずとも、既に天地の秩序は改められようとしています。我が主がそれをなされます。その革命の気配を敏感に察知したまではいいとして、そこに配役配当を期待するというのは些かといわず身の程を知らぬとしか……いとけなさと愚かしさは、どちらも見飽きぬものですが」
大丈夫だ。気づかれていない。しかし聞き捨てにできないことを言っている気もする。
それでもまずは状況を打開しなければならない。
全身を耳にする。ありとあらゆる可能性を探る。機会を得んがために。
「牧場の羊たちが自ら牧場を経営せんとするその気概は、称賛に値します。囲いを破らんとして身を鍛えた一匹こそが上等の肉といえるのですから。牧場主の振る舞いを真似る様も感心します。知恵を禁忌とする臆病に陥っていないのですから」
黒衣の男の声とは別に聞こえている音がある。ドラゴンの唸り声だ。
利用できるかもしれない。なぜならばドラゴンには弾丸が届くからだ。
何しろこの土壇場である。黒衣の男を撃ち落とせないのならば、状況を壊し、混乱させてしまえばいい。その手段がドラゴンだ。暴力の塊のような……爆弾のようなそれだ。
危険な賭けになるだろう。しかし他の打開策が思いつかない。もうそれしかない。
「しかし何とも憐れでならないのですよ。牧場の柵とは羊たちの自由を侵害するばかりではなく、安全を保障するものでもあるのです。それを忘れて気勢を上げているようでは……いやはや」
ドラゴンがもたげていた首を下げはじめた。距離が近づいた。角度もいい。
しかし長話の影響か眠たげだ。目を細めている。鼻息が熱と煙とを撒き散らしている。
「『聖母協定』の意味をはき違えたその先には破滅しかありませんよ? 雲の上の御老人たちはダブルスタンダードがお得意なのですから」
とうとう話が終わりそうな気配だ。黒衣の男はやれやれとばかりに首を振っている。
今か。不十分でも今仕掛けるよりないか。
エティエンヌが銃のグリップを握り込んだ、まさにその時に。
「騎士ロワトフェルド! 後退してください! こちらに!」
デヴィッド修道士の声が届いた。
聞き慣れた幾つもの足音と、複数のアサルトライフルが射撃準備に入った音も聞こえた。
三匹の怪物を倒し、分隊戦力が来援したのだ。
「おやおや、羊たちが群れをなして……」
黒衣の男の気が逸れた。ドラゴンが首をもたげんとして目を見開いた。
今だ。
肘つく姿勢で構えるはスプリングフィールド・オメガ。照準はドラゴンの赤き眼。無言で無呼吸で無意識的な動きでもって、トリガーを引く。
一発目。失中。ドラゴンの頬に当たった。照準修正。
二発目。命中。ドラゴンの右目に当たった。赤い色が弾けた。
三発目。中止。弾丸を温存する。
耳をつんざく咆哮が轟いた。四肢と尾が闇雲に振り回される様は嵐だ。暴れ打たれて足下の揺れる様は地震だ。次には炎も来るだろうか。
さあ、状況は崩れ去った。好機とするか否かは自分次第だ。
エティエンヌは走り出した。向かう先は暴れるドラゴンのすぐ脇だ。頭上を鉄鱗の尾がかすめても止まらない。一気に駆け抜ける。
振り向き、見上げた。黒衣の男とマリアとが背中を見せている。
ここだ。ここで決める。残弾は想定の二倍だ。二発も残っている。
狙うは黒衣の男の後頭部だ。たとえ不死であれ、脳が吹き飛んですぐに動けるわけもない。
リアサイトの凹みの奥にフロントサイトの突起を捉えた、その刹那だった。
砂塵が勢いよく目に入った。照準を失った。それどころか、むせてしまって息もできない。
凄まじの強風、それはドラゴンの羽ばたきだ。
飛ぶというのか、その巨体で。
どういう力が作用しているのか、風は強さを増しに増していく。異常な勢いだ。
もはや立っていることもできなくなり、エティエンヌは再び這いつくばった。四肢を広げ、地面に爪を立てるまでした。
それでも、耐えられなかった。
一度浮いてしまえば、後はどうにもならなかった。烈風に五体をいいようにねじられ、何度か何かにぶつかって、最後は灌木の鬱蒼としたところへ墜落した。
朦朧としながらも枝葉を掻き分け、エティエンヌは夜空を見やった。
ああ……ドラゴンが飛び去っていく。月を背景にし、禍々しくも強大な翼を広げて。
「マリ……ア……」
震える手を伸ばして……それで終わりだった。
その手に何を掴むこともなく、エティエンヌの意識は暗闇の中へと落ちていった。
◆◆◆
額の傷は深く、七針を縫った。肋骨が三本と左の鎖骨が折れていた。首にはむち打ちの症状があるし、間接各所にも動くたび痛みが走る。打撲と擦過傷についてはもはや不可算名詞として扱った方がいいだろう。
それでもエティエンヌは直立している。うつむくこともしない。
「よくぞ生き残ってくれた、エティエンヌ。神話から抜け出してきたような化け物を相手に、見事な戦いぶりだったそうだな」
銀騎長ピガール・ノアの堂々たる声を聞く。この執務室は彼の気配に満ちている。
「お前を騎士へ推薦した私としても鼻が高い。小隊を指揮して怪物を三体倒し、単身ドラゴンと戦って手傷を負わせるなど……その類稀なる戦闘能力は他の騎士の追随を許さんほどだな。勲章ものの戦果だぞ」
嬉しそうな笑顔にも笑顔では返せない。安易に口を開くこともできない。
自分は任務に失敗してここにいる。エティエンヌはその事実を軽んじるつもりなどなかった。
「……まあ、今回、勲章は出ない。理由は言わずともわかっているようだな」
頷くこともせずに、ただ真っ直ぐ壁の新十字軍軍旗を見据える。
エティエンヌは罰を受けるためにここへ立っている。
「『繁殖牝馬』ことマリア・ライミスが誘拐された。これは由々しき事態だ。新十字軍は総力を挙げて彼女を奪還しなければならない」
総力、という言葉が出た。それは欧州方面軍の総力だろうか。それとも言葉の通りに、全軍のそれであろうか。
「護衛任務に就いていたお前には責任問題が生じるのが道理だが……安心しろ。功罪合償って不問にふされた。想定外の敵に対しての敢闘を認められたのだ」
言われてみると、無罪放免もさして意外とは思わなかった。騎士一人の進退になど構っていられないのだろう現状が察せられる。
それにしても……想定外の敵とは何を指している?
怪物か。ドラゴンか。黒衣の男か。
「この決定は私のごり押しによってではないぞ? それが証拠に、あの頭の固い金騎長殿も同意している。彼と私が意見を同じくするというのは近年稀なる珍事だ。エティエンヌ、お前は期待されているのだよ」
魅力的な笑みでそんなことを言われたとて、笑みを返すことはできない。口腔の内側で唇を噛む。エティエンヌは沈黙を守る。
「フム。納得がいかないという顔をしているな。無理もないが」
無理でも道理だ。騎士の職分とは主として戦うことである。
全てを知らずとも、敵が明確であれば……戦うことさえできれば……それでいいはずだった。
エティエンヌは歯を食いしばり軍旗を睨みつけた。
悪夢の夜を越えて、今、何もかもがもどかしく腹立たしかった。
「……やはり兄妹とは似るものだ」
ピガールは溜息を吐いたようだ。
「お前の兄もまた素晴らしい騎士だった。誰よりもスカイウォーカーを憎み、誰よりも勇猛果敢に怪物と戦った。マフィアに対してもそうだ。お前の兄のような男を正義漢というのだろう。妥結というものを知らず、その信念を真っ直ぐに貫いていた……そんな風に唇を固く結んでな」
そう指摘されたとて表情を変えられない。顎の力を緩められない。
「……よかろう。お前にも真実を知る機会を与えよう。敵の正体を知る機会を」
ピガールを見た。ニヤリと笑んでいる。
「極秘任務に就いている特別チームがある。機密を取り扱うため少数精鋭で編成していたのだが、今回の襲撃によって行動範囲が拡大してな。今、緊急に補充メンバーを選考していたところだ」
机の上のファイルが示された。名簿だろうか。
「もしもお前が望むのならば、騎士エティエンヌ・ロワトフェルドをメンバーとして加えよう」
言い方からして、特別チームとやらはピガール直下の部隊のようだ。そこへ入れば機密情報を知ることができるということか。
あのドラゴンは、あの黒衣の男は、一体何者だ?
スカイウォーカーではないようだが、それならばランドウォーカーなのか?
なぜ、マリアをさらった?
新十字軍はその誘拐は予測していた? だから自分はマリアの護衛を命じられた?
それとも礼拝堂に現れたスカイウォーカーが理由か? あるいは別の想像もつかない理由があってこのようなことになっている?
尽きぬ疑問の一々に解答を得られるかもしれない。そうすることによって、戦意を再び研ぎ澄ませられるかもしれない。
エティエンヌに躊躇いはなかった。
ただ、どうしても確かめておきたいことがあった。
「兄は……真実を知っていたのですか?」
三年前、本物のエティエンヌ・ロワトフェルドは怪物に殺された。
「兄は敵の正体を知っていて……その上で戦っていたのですか?」
両親に引き続き兄までも失ったセシル・ロワトフェルドは悲嘆から病臥し、そして兄の名を名乗り復讐のためだけに生き始めたのだ。
「素晴らしい騎士であったに違いない兄は、全てを知り、それでも戦意の矛先を惑わせることなく戦いきって……己の正義を貫いたのですか?」
死に物狂いで鍛錬していたところを騎士として拾い上げてくれたのが、兄の上官であり兄の最期を看取ってくれた恩人、ピガール・ノワである。
「その通りだ」
その彼から同意を得られた。
さすれば、後は宣言するばかりだった。
「騎士エティエンヌ・ロワトフェルド、特別チームへの参加を志願します」
声を凛々しく、腰の愛銃にもよく聞こえるようにして。




