空を堕ちる
そこはこの世ならざる清浄さに乾いていた。
寒々しくも美しい白亜の宮殿……いや、神殿というべきか……そこでは夜にも闇を他人事として隅々までが鮮明だ。
屋根も壁も今しがた建立されたかのように摩耗はなく、朝には人の行き交うだろう回廊には塵もなければ影もない。中庭の花は閉じず、葉は揺れず、土には虫の気配がない。
男と女が駆けていた。どちらも白い衣をまとっている。やはりか、どちらともが美しい。揃って絶世の美貌だ。
追われているのか。得体の知れない気配が迫っている。
「聖母、先に行け。扉は開いているはずだ」
言って男は何かを手に持った。懐中電灯のようなそれは銃ではあるまいが、しかし何がしかの武器ではあるのだろう。男の声には剣呑さがある。
しかし女は素直に頷かなかった。
「ムラクモ、わかっていますね?」
立ち止まった男の衣を片手でつかんだ。何かを両手に抱えているから、そっと身を寄せるようにして。
「何があっても、どうしようもなくとも、何をも決して殺してはなりませんよ。貴方がそれで命を斬るのならば、私は一歩とて歩まぬ者となるでしょう」
「言われるまでもないことだ。守護者とは、ただ闇雲に戦えばいいというものではない」
「貴方は戦うことばかりだから、念押しをしているのです」
「心外だな。我の彫刻の腕を知らないわけでもないだろうに」
「それとて刃を用います。貴方は何でも斬ろうとしますから」
「まあ、確かにな。しかし……」
男は剣呑さをそのままに笑んだようだ。フードの奥で唇が孤を描いている。
「どうしてその子の人生の始まりに忌み事をなそうか。お前はそんなことを望むまい?」
女が抱えているもの……それは赤子だ。
白く柔らかな布に包まれ、頬の柔肉を幼く膨らませて、無垢な瞳は閉じられたままだ。
「……わかりました。では先に行って用意をします」
女はまだ何か言い足りなさそうな顔だが、それでも身をひるがえし駆け出した。
見送る男の口元には既にして笑みなどない。峻厳さが音もなく放たれて……風なくも白き衣が揺れている。右手に握られた正体不明の武器が存在感を増していく。
「……聖母よ、お前は何もわかっていない」
見えなくなった背へ向けて、男はそっと呟く。
「お前は確かに情け深い。博愛といってもいいほどだ。しかし真心から寄り添うことによって自他の区別を曖昧にする嫌いがある。それも愛情というものなのかもしれないが……いや、やはり悪癖の類だろうな」
フードの内に閃いた眼光は白刃のそれと似る。
「我はお前の守護者だが、それはお前と思想を同一にするという意味ではない。殺さずの思想は共にすれども……」
男は右手を頭上に振った。
袖を払った?
違う。攻撃だ。
何も見えずともそれは一つの斬撃だったのだ。
大理石の床へトサリと落ちてきたものは……鳥だ。大きな白鷹だ。嘴の先から尾羽の端までを真っ二つに断たれている。
「この場にいれば、お前は我の行為を責めただろうが……これは殺しではない。遺伝子操作によって造形されたこれらは機械と同じだからだ。自然を欺き模倣する不正の産物だ」
見れば鷹には目が三つある。翼も四枚だ。そしてまだ動く。身体を両断されてなお意思を持ってもがいている。
「無論のこと、不死も不殺も、諸共に不自然ではあろうが……」
踏み砕けば血が弾けた。白い世界を赤く汚した。その血が呼び水となったものか、遂に追う者たちが姿を現した。
ああ……何という凄まじき光景か。
三つ首の犬がいる。翼持つ馬がいる。人間もいると思いきや、その下半身は馬だ。逆に頭だけが牛の大男がいるそのまた一方で、老人の顔をした牛が四足で蹄を鳴らす。その脇を狼が二本足で走り、三つ首の犬もまた追い馳せる。
地獄の軍勢だ。天国のような風景の中にあって。
「死なぬ者が殺さぬという……それはどこか自然に叶っているだろうよ。死ぬものが殺すことと裏表だろうよ。そこのところをねじり合わせれば、神聖さも邪悪さも即座に立ち現れよう」
津波のようなそれに独り向き合って、男は笑んだ。獰猛に牙剥いて。
「そもそも我は、人間以外に命が……霊魂が宿るなどとは考えていないのだ」
嵐が巻き起こった。
男の右手が目にも留まらぬ速度で振るわれて、津波は無数の飛沫へと化していく。傍若無人というべきか。それとも鎧袖一触というべきか。いや……これは荒唐無稽というべきだろう。
剣だ。
これは一振りの剣による攻撃なのだ。
男の持つ懐中電灯のようなもの……それは柄だ。そこから伸びた無形の刃が、魑魅魍魎の津波を斬り散らす。鋭利極まる巨大なミキサーのようなものだ。何もかもを寸断し通過させない。
「どうした、誰も来ないのか? 『眷属』などを幾ら寄越したところで……」
男は大上段から見えざる剣を振り下ろした。
それはとどめの一撃だ。
初めは津波であったものが今は血肉の原となって白き世界を染めている。海を割り道を作ることが奇跡ならば……これは? この凄惨さは奇跡と称していいものか?
「我を止めたければ自らをもって挑むことだ。尊貴と惜しむ老骨に鞭打ってな」
男は身をひるがえし駆け出した。
未だ白いままの回廊を進んで行きついた先には尖塔が建っている。飾り気なくも神聖さを感じさえる塔だ。色は当然のように白色である。
扉が開いている。男は中へ駆け込んだ。
床一面に白い煙がたゆたって雲を踏むかのようなそこには、精緻な彫刻に飾られて、円形のゴンドラが浮遊していた。聖女と呼ばれた女がその上に立っている。
「追手はどうしたのですか、ムラクモ」
「追えないようにしたまでだ。我はそのためにいる」
「まさか、その剣を振り回してはいませんね?」
「この剣に人を斬らせたくないのなら、急げ」
「貴方は……!」
「守護者であり剣士であり彫刻家だ。そら、この天使像など上手くこさえてあるだろう?」
男の剣持たぬ左手が像の頭を撫でるとゴンドラが沈み始めた。たちまち二人は白雲に呑まれて……再びその姿を現した時、そこには信じられないほどの絶景が広がっていた。
見上げれば常闇の宇宙、見下ろせば夜闇の地球……天と地の狭間……それは超高高度の世界に違いない。
ゴンドラは滑るようにして降下していく。
プロペラを回すでも縄で吊られるでもなく、鳥のように飛翔することも滑空することもなく、ただ静かに降りていく。地を望む角度の変わりようからしてかなりの速度だ。
発光していることもあって流星のようにも見える。
「よしよし、大丈夫ですよ。母がいるのですから」
むずかる赤子を女があやす。慈愛に満ちた笑みは、なるほど聖母と呼ばれるだけのことはあるのかもしれない。ゴンドラに照らされて夜に浮かび上がるは、微風に衣が揺れる美しき母子の姿……それはもはや絵画の域に達している。
これも奇跡なのか。それとも魔法の類なのか。あるいは科学の力なのか。かくも高速で空を流れて……どうしてそうも穏やかにいられる?
「……来るか」
男は傍らの母子に目もくれず、ただ上を見ていた。星空をではない。男の尋常ならざる視力は別のものを見ている。恐るべきものを視界に捉えている。
星の海に敷かれた一本の白い帯……星を囲む壮大なリング……そこから降り来てそこを見据えるその意図は……敵の出撃の把握。
棺桶だ。
無数の棺桶が地へ向けて逆さに吊り下げられている。
それらの蓋が開く。一つ、また一つと。そして美貌の者たちが追ってくる。一人、また一人と。
「ムラクモ……?」
「よく聞け、聖母よ。地に降り立った後は己の素性を伏せろ。その子についてもだ。不死性を周囲に気取られるなよ? 理由は言わずともわかるな? それは地上社会にとって劇物でしかない」
新たなる追手たちは無手ではない。
手に手に握られているものは、形こそ様々なれども、どれもが刃なき武器だ。
「全てを疑い、賢く逞しく生きろ。理想の丘とは遠く遥かな先にしかなく、現実の草むらはあらゆる手段をもってお前の心を挫かんとする……希望をしっかと抱くことだ」
速い。棺桶から舞い降りてくる者たちは、誰もが超常の力を秘めて迫り来る。
男は己の武器を両手で構えた。女を背に庇うようにして立っている。
「もしも遥かな道程に疲れ果てたならば……その時は東へ行け。救いはある」
ゴンドラの周りで何かが弾けた。そらまただ。次々とだ。
見えざる何かが撃ち込まれ、見えざる刃がそれを迎え撃っているのだ。
透明にして激烈なる攻防……数の猛威か、男の衣が裂けた。一撃では済まない。ボロボロにされていく。しかし何の不思議か血の一滴も散らない。正面から当たり背に抜けた刺突すらも。
その一方でゴンドラは削られていく。先の天使像などもはや見る影もない。
「ムラクモ……!」
「これまでだ。運があればまた会える。なければこれきりだ。心配は無用。どちらにせよお前は自由を得る……得させてみせるのが聖母の守護者というものだ!」
男は跳んだ。夜の空を降り迫る多勢へ向けて。
男は飛ぶ……いや、浮く? ボロボロに破けた衣の破片すらも落ちず男と共に行く。重力が働いていない。まさか大地がその壮絶に味方したとでもいうのか。
「ムラクモ!!」
「行け! 聖母よ! お前の夢想が世界を変えられるか否か……見極めさせてもらうぞ!」
◆◆◆
空の青に近い緑の丘で、母が子へと語りかけている。
それは美しい光景であるはずなのに。
「貴方の目に世界はどう見えていますか?」
女の声音は慈愛に満ちてはいるものの……絶望的なまでに疲れ果てている。
「貴方は大いなる使命をもって生まれた子なのですから、きっと全てが薄汚れて見えているのでしょうね。他の誰にもわからずとも、この母には貴方の哀しみがわかりますよ? 何と可哀想な子なのでしょう……貴方は愛されるよりも愛さなければならないというのに」
フードを目深にかぶったその女は日差しを背に受けているから、自然、顔に影のヴェールをまとわせる。口元ばかりが大きく笑みの形を見せている。
首から提げているボロボロの布はスカプラリオだろうか。
「ああ……オライオン。特別な子。神聖な子。愛しい子」
白く骨ばった手に頬を撫でられているのは、黒髪の少年だ。
美しい……その子はあまりにも美しい。まるで神の手による精緻な宝石細工のようだ。
彼が目を細め撫でられるに任せている様は、どこかしらが罪深い。何かしらの禁忌に触れているような、奇妙な背徳感が漂う。彼のオリエンタルな雰囲気が醸す妖艶というものだろうか。
「ほら、御覧なさい。雲が晴れて美しさが望めていますよ」
女が急に身を退かせたから、少年は眩しい思いをすることになった。まつ毛の長いその目蓋を瞬きする。透明に照らされて、初めは細く……次第に太く大きく空を仰ぎ見た。
虹……?
違う。虹のはずもない。
蒼穹に白く輝かしく巨大な孤を描いているあれは、虹のもつ儚さや希少性とは無縁のものだ。天候に左右されるとすれば雲に隠れることくらいで、沈まず動かずの威容は太陽や月にも勝る。
さもあらん。
あれは、たとえ地上が滅亡したとて消えることのない円環なのだから。
「ライトウェイ……楽園へと続く、天の架け橋として在るもの……」
女が言った。歌うようにして。
「貴方が本来いるべき場所は、永遠の美に眠るあの空の上の世界でした。母も一時はあそこで憩い、貴方をこの身の内に育てたのですから。塵一つなき清浄なる世界ですよ。苦しみなき荘厳な世界ですよ。本当に、本当に綺麗な……とても、とても罪深くはあれども……」
はっきりと憧れが込もっている。
言葉尻は切なげ吐息に掻き消された。
「あそこには一つを除き全てがあったのです。たった一つを排除して、他の何もかもを揃えていたのです。今にして思えば、大罪を代償にして他を購っていたのかもしれません」
凛然さが閃いて、それが既知の人物を思わせた。
あの女か。夢の天空に聖母と呼ばれた、あの美しい女なのか。べっとりと倦怠に塗れていて。
「それに比べて地上は……」
根の深さを思わせる激情に、吐息が震えていた。
両の手で握り締めた……爪を立てたから、ボロボロの布切れは更に痛んだろう。
「その一つがあってしまうばかりに、ここは駄目です。地上はその一つに怯えて、誤魔化して、見ないふりをして、全てを取り繕って……しかも失敗しています。たった一つを取り除けず、さりとて受け入れることもできずに……全てが薄汚れています」
空へ向けてか一歩二歩と足を進めていたことは、きっと無意識の行為だったのだろう。
女は少し慌てた風に少年へと振り向いた。
そして肩を掴む。うっかりと手放してしまった宝物がそこにまだあることを、触覚鋭く確かめるようにして。
「貴方が、救うのですよ。他の誰でもなく、母の産んだ貴方こそが」
誰に対して、何に対して誇らしげにしているのだろうか。
女は笑んでいる。無理矢理な笑みではあれど、そうしていれば恍惚としたものも湧いてこよう。勇気も奮おう。それはしかし……蝋燭が燃え尽きる前の、最後の発光にも似て。
「敢えて、あそこから出てきたのですよ。母と貴方とは、刹那が汚らわしく鬱積するこの地上へと降臨して来たのですよ。天地を諸共に救う使命を帯びて……救世主として」
少年は返事をするでもなく、ただ空を見ていた。
財宝を値踏みするかのようにして、じっくりと、見ていた。