ククペリと
気付くとハーディエットは草原に立っていた。
空は青く、草は風にそよぎ、地平線まで続く。周囲に遮るものは何もない。
変だな、と思った。
視線を戻すと目の前に青年が立っている。
二十代半ばくらいのチョコレート色の髪と目をした優しそうな男性だ。
「……お父さん?」
母と絵姿を見た時に「ハーディーはお父さん似ね」と言われた、ハーディエットが三歳の時に亡くなった父にそっくりだった。
「お、お父さん、なの? あああ、あの、わたしハーディエットだよ。九歳になったの。お母さんは元気で離れて騎士をやってて、おばあちゃんのところにいて、お手伝いも勉強も頑張ってて……」
捲し立てるように話すハーディエットの口に、そっと人差し指が当てられる。
彼はハーディエットに微笑んだ。
――欲しいものは何?
そう聞かれた気がした。
戸惑いつつも答えると、彼はハーディエットに手を差し出した。
ハーディエットはそれを受け取ろうと手を伸ばし――
目が覚めた。
残念な気持ちと嬉しい気持ちがごちゃ混ぜになって、叫び出したい、けれどやっちゃだめだと、うーうー言いながらベッドの上で転げ回った。寝起きの髪が更にボサボサとなり、ブラシで整えるより洗髪した方が早いのではないかと悩むようなところで、右手の違和感に気付いた。
手を開くとそこには、卵のような物体が黒々と光り輝いていた。
「クロクロケロケロコロコロキロキロカロカロ……」
拍子を付けた謎な言葉に合わせてハーディエットのチョコレート色の髪が揺れる。時折大きく揺れるのは、水溜りを飛び越したり、蹴っていた石を追いかけたりするからだ。
南へと続く道をひたすら歩く。徐々に家が少なくなり、緑が多くなる。小動物のような物が遠くに見えた。
まばらに見えていた家が小さくなり始めた頃、分かれ道に差し掛かった。ハーディエットは本筋を逸れ、右手前方に広がる森に足を向けた。右手に大きなバスケット、左手に黒い卵のような物を持って。
今朝、ハーディエットは朝食の席で祖父母に卵のような物について話した。現実的ではないと分かっていながらも、夢で父に貰ったのだと確信していた。しかし、祖父母に正直には話さなかった。ただの夢だと一笑されるのが嫌だったし、何よりこのことはハーディエットの心の中だけに閉じ込めておきたいと思ったからだ。だから起きたら部屋に卵があったと話した。嘘は言っていない。
「こんな卵は初めて見るな。図鑑にも載っていなかったんだろう」
頷くハーディエットに祖父はしげしげと眺めていた卵を返した。横で二人のやり取りを見ていた祖母が口を開いた。
「ククペリさんに聞いてみたら? 今日はククペリさんの配達があったでしょう」
祖父母の営む村唯一の食堂は昼食の配達も請け負っている。ハーディエットは午前中配達の手伝いをし、午後は自由に過ごしていた。
にっこり微笑む祖母に、祖父が相槌を打った。
「そうだな、そうしなさい」
祖父母とハーディエットの期待を乗せて、ククペリ家へと向かう足は自然と早くなる。
村の西に広がる森の近く、村の外れにククペリは住んでいる。森の害獣や偶に出る魔獣を狩ったり、壊れた小屋や柵を直したり、書類の作成、帳簿付けと何でもできる村の便利屋さんだ。
ハーディエットの住むラドホムベル皇国は、ファラリアンド大陸の西の果てにある。森と水の国と呼ばれるほど自然豊かな国ではあるが、魔物の巣窟である壊乱の砂漠と魔獣の跋扈する沈黙の森を超えた先にある為、鄙びた国とも揶揄されていた。その鄙びた国の外れにあるボーヴェン領の更に外れにハーディエットの住むクシカ村はあった。そんなど田舎クシカ村に何でもできるククペリはもったいないと誰もが思ったが、彼の事情を知ると皆納得していた。
緩やかな下り坂を下りて行くと木立の中に佇む小さな家が目に入った。
「ククペリおじさーん」
ハーディエットは家の前で薪割りをしていた大柄な男に手を振った。
顔を上げた男、ククペリはハーディエットを認めると手を振り返した。口が動いていたが、何を言っているのか聞こえなかった。
「ご飯持ってきたよ」
ハーディエットはバスケットの中から包みを取り出す。受け取ったククペリは口をもごもごと動かし、家の中に入っていった。今のは「いつもありがとう。ちょっと待ってな」と言われたのだと思った。
ククペリは声を出すことができなかった。そして、「ククペリ」という名は彼の本当の名ではない。本来ククペリというのは、空気中の魔素を取り込んで魔獣化した熊のことである。
今から二十年前、西の森の中で行き倒れになっていた青年を猟に来ていた村人が助けた。彼は記憶と声を失っていた。落ち込む青年を励ましながら村へ帰る途中、彼らはククペリに襲われた。危険度Aの魔獣に死を覚悟した時、青年が魔獣を一撃で倒してしまった。ククペリと同じ濃灰色の髪と目を持つ青年は、その時からククペリという名になった。
ククペリが大きな包みを持って現れた。中身はウーピラだそうだ。香草焼きが絶品の兎の魔獣だ。ハーディエットの顔が輝く。
「おじさんありがとう!」
ウーピラを空になったバスケットに入れてもらう。ハーディエットは、ぱんぱんになったバスケットを軽々と持ち上げた。バスケットに重さを軽減させる魔術がかかっていなければ、できない芸当だ。
今日の夕飯にウーピラの香草焼きを作ってもらおう、と帰りかけたところで何か忘れていることに気付く。何だろうと首を傾げて、ポケットの中の物に思い当たった。
落とした時に石と間違えて蹴っちゃったからポケットに入れたんだった。
あの時初めて血の気が引くというのを経験した。隣のおじさんが酔って村長さんのヅラを弾き飛ばした時の、青ざめたおじさんの気持ちもよく分かった。幸いにも卵には傷一つついていなかったが。バレたヅラはどうにもならなかったけど、おじさんを丸刈りにしてしまった村長さんもどうにもならなかったけど、卵は何もなくて本当に良かったと安堵したのだ。
帰りかけていた足を止めたハーディエットにククペリは声をかけた。どうかしたのかと。相変わらず空気を震わせるだけで言葉にならなかったが。
「何でもないよ。あのね、おじさんに見てもらおうと思ってたの忘れてたの」
ハーディエットはバスケットを置き、ポケットを探り始めた。
ククペリはこういう時、ハーディエットは声のない言葉を理解しているのではないかといつも思う。村人とは筆談と身振りで済ます会話も、ハーディエットとならそんな必要はない。
「これ、この卵、何の卵か分かる? 起きたら部屋にあったの」
ハーディエットが取り出したのは、黒々と光り輝く小さな卵だった。
初めて見る卵だった。
よく見せてもらおうと手を差し出すククペリに、ハーディエットは素直に卵を渡した。
渡した筈だった。
「あれっ、あれっ、何で?」
卵がハーディエットの手にくっついて離れなくなっていた。
ハーディエットは卵を持つ手を振り回した。
離れない。
反対の手で卵を掴んで引き離そうとした。
反対の手も卵にくっつき離れなくなった。
ハーディエットの目が据わる。
薪割りの斧に向かって歩こうとするハーディエットをククペリが慌てて止めた。
「卵の分際で生意気。分からせてやる」
この時ハーディエットの頭からは、父に貰ったということがすっかり抜け落ちていた。
割ってその面拝んでやる、とばかりにギリギリ力を込める。当然卵はびくりともしない。
ククペリは貸しなさいとばかりに手を伸ばし――
空を切った。
ハーディエットの手がククペリを避けたのだ。いや、卵が、というべきか。
顔を見合わせる二人。
ククペリが手を伸ばし、卵が避ける。伸ばして、避ける。数回繰り返したところで、ハーディエットがつぶやいた。
「手が冷たい」
卵から大量の水が滴っていた。
「これ、卵じゃないの?」
暗に魔物じゃないかと問いかけるハーディエットの顔色が若干悪くなっている。しかし冷静にはなれたようだ。ククペリは一瞬戸惑いをみせたが首を横に振った。魔物は魔力の塊。この卵からほとんど魔力は感じられない。それに何より魔物は水を嫌うのだ。
考え込むハーディエットの隙をついてククペリは彼女の手首を掴んだ。
途端、手から落ちる卵。あっという間に卵はハーディエットのポケットに潜り込んだ。
ポケットを覗くと、卵がブルブルと震えていた。
卵はククペリが怖いらしい。ハーディエットは、もう『卵』という謎生物でいいんじゃないかと呆れ始めていた。
しかし、ククペリはそう思わなかったようだ。
「専門家に聞いてみるの?」
ククペリは頷いた。ハーディエットが専門家と言われて思いつくのは、領の中心街ボーヴェンに住んでいた頃、面倒を見てくれた五人だった。
「ボーヴェンにいる皆に会いに行くの? おじさんが連れて行ってくれるの?」
ククペリは頷く。祖父母の許しが出れば、三日後に行こうとハーディエットを誘った。ハーディエットは飛び上がらんばかりに喜んだ。思わずククペリに抱きつく。卵の震えが激しくなった。
「嬉しい! 皆に会えるの久しぶりだから凄く嬉しい。ね、ね、ちょっと足を伸ばしてお母さんのいるテトラ砦まで行こうよ」
強請るハーディエットに、無理だと伝える。ハーディエットは、言ってみただけと冗談めかして笑っていたが、残念そうな表情は隠しきれていなかった。
テトラ砦まで連れて行ってやりたいのは山々だが……
ハーディエットの母レベッカはボーヴェン領の騎士だ。ハーディエットが生まれるまでは皇国騎士団に所属していた。同じ騎士であった夫を亡くした後、故郷に戻り領騎士となった。彼女達母娘は知り合いの多いボーヴェンの街で暮らしていたが、二年前にレベッカがテトラ砦に転属となってしまい、今では離れて暮らしている。会えるのは年に二回だけだ。
ボーヴェンの街まで馬車で一時間半、そこからテトラ砦まで馬車で半日。近いようで遠い。
ハーディエットはバスケットを持ち上げた。
「おじいちゃんとおばあちゃんに話してくる。おじさんも後で家に来て話してね」
先程までの面差しは欠片もなく、楽しげに「絶対だよ」と言いながら足取り軽く駆けていった。