追想の逢瀬 参【完結】
「その萩は、以前知り合いと作った時に書いた処方箋をそのままに作ったんですよ。どうやら失敗だったみたいで、餡に砂糖と塩を一緒に混ぜてしまったから――塩っぽいでしょう?」
「はい。でも、少しだけですから。それが餡の甘さを引き立てていて美味しいですよ」
「俺の知り合いも、撫子さんと同じことを言っていたよ」
「ふふ、それならその方と気が合うかもしれませんね。その方は、どんな人なのですか?」
「その知り合いは――同じ学府に通っていたんです。まだ俺が簪屋の跡目を継ぐか迷っていた時、その知人が良く相談にのってくれた」
「学府……。この辺りだと、五十鈴学府かしら。私もあそこに通っていたんです。実家の跡を継ぐので、和紙の勉強をするために学びに行ってました」
撫子はポンと掌を軽く叩き合わせる。
「俺とその彼女はね、専攻が違っていたから直接棟内で逢うことは無かったんだ。でも、丁度互いの棟の間にある中庭に小さな池があってね。その傍の桜の木の下で、よく逢って話をしていたんだ」
懐かしい想い出に、思わず微かに笑みが浮かぶ。
「長い黒髪と、笑顔が素敵な人でね。散々相談事を訊いてもらった。彼女は俺とは違ってしっかりとした目標と、跡目を継ぐ覚悟を持っていた。でも、だからこそそんな彼女の話をきいて、俺も跡を継ぐ決心ができたんだ」
「その人は、貴方にとってとても大切な方だったんですね」
「ああ。彼女には千の言葉を尽くしても、足りないくらいだよ。でもせめてもの御礼として、彼女が長い髪を束ねられるように簪を作ろうと思ったんだ」
「それは、素敵ですね。もしかして――この白檀の簪がそうなんですか?」
「ああ。だけれど――」
ふっと、彼の貌が暗く翳った。
そして俯くと、額に手を添え柳眉を歪め、か細く啼いた。
「学府を卒業したその日、彼女は事故に遭った。幸い、怪我は掠り傷程度であったけれど……」
「けれど……?」
「彼女は、一部の記憶を無くしていた。俺の記憶だけ――」
「……!」
変わることのない、平穏な日常があると信じて。
渡すべき時が、訪れるのだと疑うことなく過ごしていた。
なのに――その女性が想い人であると気付いた時には、すべてが遅すぎていた。
「もっと早く、彼女に伝えたかった。伝えれば良かったと後悔した。いつまでも彼女との関係は続くものだと思っていた。それなのに……!」
誰だと問うた無邪気な笑顔が。
名前を聞いてくる薄い唇が。
記憶に焼き付き、剥がれない。
「夜一郎さん」
不意に、添えられた華奢な掌。ゆっくりと貌を上げると、すぐ傍には撫子の貌があった。
「そんなに哀しまないで下さい。寂しい貌をしないで下さい。その想い人は生きているのでしょう? 生きていてくれているのなら、きっとまた貴方のことを想い出してくれます。だって、きっとその人も、貴方のことが好きだったんですから」
「撫子さん……」
グッと喉の奥で言葉が詰まる。
「きっと、そんなに遠い未来なんかじゃないんです。だから、想い出すその日まで、どうか待っていてあげて下さい」
「有難う……」
❀❀❀
ボーンと重厚な鐘の音が、真昼の時刻を告げた。
それに気づいた撫子は慌てて席を立つと夜一郎に頭を下げた。
「すみません。もうお店に戻らないと……」
「いや。俺もそろそろ戻るよ。長居をしすぎてしまったからね」
「御帰りに、なられますか」
見計らったかのように、少女が小さな風呂敷を二つ提げ、目の前にやって来た。
「すっかり長居をしてしまったわ。ごめんなさい」
「いいえ。今の貴方達の数少ない想い出の一つとなれたのなら、これほど幸福なことは御座いません」
また、過去のような関係に戻れたことを、一瞬でも錯覚できたのなら、それは多少なりとも幸福なことだろう――。
「どうぞ、こちらをお持ち帰り下さいませ。萩の余りで御座います」
そう言うと少女は、躑躅の模様が描かれた小さな風呂敷を二人に手渡した。
「有難う、頂くよ」
「お邪魔しました。お茶とお菓子、美味しかったです」
「これから先、良き想い出を得られることを切に願っております。夜一郎さま、撫子さま」
それだけ言うと、少女は深々と頭を垂れ、二人の背中を見送った。
追廊庵からの帰り道。
躑躅の咲き誇る緑の回廊を並んで歩く。
そんな二人を出口へと誘うように、惑い歩いて来たはずのその路は、優しく開いた。
両脇を埋め尽くす、爛漫とした躑躅。
その一つを手に取ると、撫子は朗らかに笑ってみせた。
「夜一郎さん、見て下さい。綺麗な躑躅ですよ」
カランと乾いた下駄音を鳴らしながら、撫子は躑躅の回廊を行く。
「今度、躑躅の灯籠でも作ってみようかしら。そうしたら、夜一郎さんに贈っても良いですか? 今日の想い出を、形に残して置きたいんです」
「……有難う。出来上がったら、取りに伺おうか。そうしたら俺からも一つ、贈り物が出来るからね」
「贈り物、ですか?」
「ああ。今日の想い出の一つとして、躑躅の簪を作ってみるよ。そうしたら、君に贈ろう。それに――」
「――それに?」
「また、君に逢えるからね」
夜一郎は照れくさそうに、俯きがちに笑う。
「そうですね。でも、その前に私が夜一郎さんのお店に行くと思います。貴方に、また逢いたいですから」
穏やかな静寂が満ちる中、二つの影はゆっくりと進む。 そして道なりに進んでいくと、次第に躑躅の木々が少なくなり、やがて賑やかな喧噪が聞こえてきた。
「お囃子……?」
「きっと練習だろう。神社で行われる、季節祭が近い」
喧噪が近づく。それにつれて背後から微かに風の流れを感じた。そして、一歩。
「きゃ……!」
突如強い風に背中を押され、脚がもつれた。
ガクンと体勢が崩れ、そのまま茂みを抜けると地面に倒れそうになる。
「撫子……っ」
強い力によって身体が浮かび、引き寄せられる感覚。
直後、目の前には夜一郎の不安そうな貌があった。
「怪我は?」
「だ、大丈夫です」
良かった、と安堵の吐息を零す夜一郎。
その背後で、ザワリと茂みが震え路が閉じた気がした。
「あ……」
「どうしたんだい?」
「路が……」
「路……?」
「いえ、なんでもありません」
微かに浮かぶ、少女の面影。
手元にある躑躅の風呂敷を一瞥すると、撫子は夜一郎の手を優しく握った。
「……夜一郎さん。戻りましょうか」
夜一郎の貌は、霞むことはなく。
記憶の奥底から掬い上げた想い出に、優しい色が滲む。
夜一郎といることに不安はなく、不思議と心は穏やかであった。
「撫子」
「はい……?」
夜一郎の少し先を歩こうとした時だった。
不意に、名前を呼ばれた。
振り返ると、そこには夜一郎が神妙な面持ちでこちらを見ていた。
「撫子。君に伝えたいことがある……」
❀❀❀
まだ彼女への想いに気付くことがなく。
彼女もまた、彼の想いに気づけない時のこと。
遠い昔に交わした約束が、絡み解けて、また紡ぐ。
界街で盛大に行われた季節祭。
そこに一組の男女の姿があった。
一人は躑躅の灯籠を手に持ち、もう一人は長い黒髪に躑躅の簪を挿していたという――。
【了】
少し修正を加えた作品です。
悲恋というキーワードに該当するかは、今になって考えると悩みますね。
初心な、不器用な恋愛という題材は好きなので、また続きを書くかもしれません。
ここまでお読み頂きまして、ありがとうございました。