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想ひ人  作者: 黒猫 印
2/3

追想の逢瀬 弐

「撫子、お客さんが来たンかね?」

 一人目の客人が帰り、数刻とたたないうちに……。不意に、店の奥から一人の老婆が顔をだした。

 深い皺の刻まれた、くしゃんとした顔に笑顔を浮かべたその老婆は、撫子の唯一の家族であった。

小春(こはる)お婆様。無理なさらないで。まだ、脚の具合だって良くなっていないでしょう?」

「なぁに。少しくらいなら大丈夫だよ、撫子。……それより、その柄の風呂敷。また、黛さんトコのが来たンね」

「小春お婆様……あの方とお知り合いなの?」

「知り合いもなにも、黛さんは昔からうちに灯籠の修理を頼んでくれるお得意様じゃないか」

 前に会わなかったかねぇ、と小首を傾げながら、小春は穏やかな声で呟いた。

「あらあら、これは撫子のかい?」

「え……?」

 小春は机に置かれた一本の簪を手に取ると、小さな掌にそれを乗せた。柔らかい流線形を帯びたそれは、木製の撫子の簪であった。

「大変。きっと黛さんが忘れていったんだわ」

「直ぐに届けてあげなさい。まだ近くにいるかも知れないからね」

「はい。少し出て参ります。小春お婆様、お店のこと宜しくお願い致します」


      ❀❀❀


 店から表通りへと出ると、そこには大きな人の流れができていた。右から左、左から右へと流れる人の群れ。

 その群れの中に、先ほど店に来た客人の姿が垣間見えた。

「黛さん……!」

 その流れになんとか身を滑り込ませると、男の後を追う。

「あの……待って。ちょっと待って下さい……っ」

 足早に、撫子は男の背中を追いかける。けれど男との距離はどんどんひらき、やがて人の群れから抜け出た頃には男の姿は草木の影に紛れていた。

「なんて足が速いのかしら」

 息を切らしながら、木々の茂る路を進んでいく。

 躑躅(つつじ)の咲き乱れる回廊。

 苔の生えた石畳。

 清涼を感じる小川のせせらぎ。

 普段ならば目を奪われる、情緒ある風景。

 けれど今の撫子にとって見えているものは、遥か先を歩く一人の男の背中、ただそれだけであった。

「きゃあ……っ!」

 突如、視界が開けた瞬間だった。

 轟、と強い風が身体を嬲るように吹き荒れた。

 頭を喉を、腰を脚を。

 まるで何かを探るように駆け抜けた風はものの数秒で静まると、撫子はゆっくりと閉じていた瞼を持ち上げた。

「あ……、見失ってしまったわ」

 しょんぼりと肩を落としながらも、乱れてしまった長い黒髪を手櫛で整える。そしてそのまま戻ることはせず、撫子はゆっくりとした足取りで、入り組んだその道を進んでいく。

 すると――、

〝この声は届かない。

 この想いは届かない。

 何回、何百、何千と。

 幾度も気持ちを吐き出しても

 決して気付くことはないのだろう。

 遠い場所で笑う君が。

 傍で微笑む君の顔が。

 近くで霞む、君の面影〟


 何処から溢れてきたのか。

 耳朶に届いた一つの旋律。それを手繰るように、撫子はその建物へと歩を進める。人知れぬその場所に鎮座する、白木と土壁で建てられた質素な庵。

 その入口に視線を向けると、そこには小さな切り株に、短く三文字の言葉が刻まれていた。

追廊(ついろう)(あん)……?」

 視線が辿ったその言葉を、声に出してみる。刹那、

「いらっしゃいまし」

「きゃ……!」

 突如かけられたその声に、思わず撫子は微かな悲鳴をあげた。そして慌てて振り向くと、そこには先ほどまでは居なかった筈の、一人の少女がたっていた。

「久方ぶりの客人。待ちくたびれました……」

 長く淡い色をした髪を結い上げることなくサラリと背中に流し、露草色の着物に身を包んだその姿は、名家の子女のようで、けれどもこんな場所に一人でいるわけはないと思い直すと、撫子は思い切って少女に問いかけた。

「あの、此処はいったい……。お店か何か?」

「ここは、貴女の為のお店で御座います」

 少女は凜としたまま、さらに言葉を続ける。

「ここは必要とする人が、必要な時、必要な間ひらかれる囲い処。ここはあの方にとっても、貴女にとっても必要不可欠な場所――」

「あの方……? 私、この簪を届けにきただけなの。お店の客人で、黛という名の男の人なのだけど。これを渡して頂ければ……」

「はい。そちらの客人なら、奥でお待ちしております。どうか、貴女の手、自らでお渡しになって下さい」

「え……」

「貴女でなければ、意味の無いことで御座いますから。言葉も、そして気持ちも。粗末で些細な〝想い〟であれど、想う人がいなければ〝想いを出すこと〟すら叶わないものなのです」

「想い……?」

「どうぞ。中へ」

 少女はそう言うと、カラリと戸を開き、撫子を中へと招きいれた。撫子は戸惑いながらも、それでも少女の強い言葉に逆らえないまま、下駄を脱ぎ、薄暗い回廊を進む。

「すぐに、お飲み物をお持ちします。お飲み物は――」

「え? あの、えっと……」

「――玄米茶がお好きですよね。菓子は萩をお持ちします」

 まるで全てを理解しているとでも言わんばかりに、淡々と言葉を口にしてゆく。そして、少女はとある部屋の前に立つとゆっくりと襖を開いた。

「あ……」

「撫子、さん」

 中には店に来ていた男、黛夜一郎の姿があった。

「どうして、此処に――」

「追いかけてきたんです。渡したい物があって――これ、貴方の簪ですよね?」

「…………」

 撫子のその言葉に、何故か黛はとても寂しそうな表情をした。

「……有難う。確かにこれは、俺の簪だよ」

「鳴呼、良かった。お店に忘れられていかれた時は、本当にどうしようかと思いました。きっと大切なものなんだろうと思って……」

 撫子はホッと胸を撫で下ろす。

 その姿を黛は何処か懐かしいものを見るような、そんな眼差しで見ていた。

「だけれど、これは女性物の簪だからね。男の俺が持っていて、可笑しいとは思わなかったのかい」

「いえ、そんなことは――。ただ、誰か大切な方に贈るのかと思って」

「…………」

 黛は応えない。

 ただ、撫子の手から簪を受け取ることはしないまま、向かいの席に座るよう促すと、手元に置かれていた玄米茶を静かに口にした。

「でもこの簪、とても素敵ですね。香木……白檀かしら。とても好い香りがするわ。それに撫子の装飾がとても綺麗」

「有難う。この簪、気に入られたようだね」

「はい」

「良かった……」

 黛の、その一言。

 吐息混じりの小さな呟きに、撫子は思わず黛の顔を見つめた。

 穏やかな声。

 優しい笑顔。

 それでもその表情は寂しげに翳っていて、その理由が撫子には思いつかなかった。

「あの、どこのお店の物かお伺いしてもいいですか?」

「これは、どこの店にも置いていないよ」

「え……? この界街(まち)にはないお店なんですか」

「いや。この界街に、という意味ではないよ。世界中の何処を探しても、この簪は売ってはいない。これは、俺が作ったものだから」

 酷く愛おしそうな、悲しみを滲ませたその表情に、何故か撫子の胸は酷く痛んだ。その苦しみに柳眉を垂らし、無意識に胸元を握りしめながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「貴方が……?」

「ああ。とある人に贈るためにこの簪を作ったんだ」

 白檀の簪を見つめながら、黛は訥々と言葉を紡ぐ。

「撫子さんは……どうして此処に来られたんだい」

「それは、貴方を追いかけてきたんです」

「俺の姿なんて……途中で見失った筈。なのに、何故?」

「――ッ!」

「どうして、来てくれたんだい」

 ズキッと頭の奥底で、言葉にならない傷みが生まれる。

――頭が、いたい……。それに、心臓も。

 鈍痛とは呼べない程の痛みに、思わず眉を寄せる。

「撫子さん?」

「すみません……。ちょっと、頭痛が」

 傷みのせいだろうか。黛の貌が、目の前にいる筈なのにはっきりと見ることができなかった。まるで磨り硝子を隔てているかのように、その色彩が霞んで散る。

「すみません。私、そろそろ――」

 お暇します、そう告げようとした刹那、視界の端に一人の少女が現れた。それは、撫子をここまで案内したあの少女だった。

「お待たせ致しました。玄米茶と萩で御座います」

 少女は小さな盆の上にのせていた、玄米茶と萩を撫子の前に置く。そして、黛を一瞥するとまるで諫めるように一言、男の名を呼んだ。

「黛さま」

「ああ、すまない。――撫子さん、お茶をどうぞ。お茶には茶素が含まれているから、頭痛も和らぐと思うよ」

「そう、なんですか……? それなら、頂きます」

 縁が濃緑に彩られた器を手に取ると、ゆっくりとその冷茶に口づけた。よく冷えたその液体を口に含むと、スッキリとした渋みと仄かな甘みが口の中に広がる。

「……美味しい。このお茶、とても美味しいです。それになんだか懐かしい味。以前、どこかでこのお茶を飲んだことがある気がします」

「懐かしい、ですか。良かった。萩も、美味しいと思いますよ」

「有難う。頂きます」

 黒文字を手に取り、食べやすい大きさに切り分けると、そのうちの一つを口に運ぶ。

「美味しい。でもこれも――食べたことがあるような。何処、だったかしら」

 撫子は小さな顎に指を添え、小首を傾げる。

「…………」

 その姿を、夜一郎は特に表情を変えることなく、深い色を湛えた眼差しで見つめていた。


      ❀❀❀


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