追想の逢瀬
五月初旬。
長雨が降った後の、しっとりとした冷たい風が、優しく鉄風鈴の舌を鳴らした。カランと快い音が響き、その音で客人が来たことに気づくと、撫子は店の奥から店先へと顔を出した。
「はい、いらっしゃいませ」
「お早う」
客人は、一人の男だった。
昨日まで雨が降っていたからだろう。男が開けた戸口からは、澄んだ雨の匂いと水が滴り落ちる、旋律が聞こえた。
「灯籠の修理を頼みたいんだけども……良いかな」
男は、片手に藍色の風呂敷を提げていた。
店に置かれた細長い机。男はその上に風呂敷を置くと、丁寧にそれを解き中から和紙灯籠を一つ、取り出して見せた。
「昔、知人から貰った物なんだ。大切にしていたのだけどやはり和紙が傷んできてしまってね。知人からこの店の品だと伺っていたものだから、持ってきたんだ。一両日中に……修理を頼めないだろうか」
「こちらの灯籠の修理ですね。かしこまりました。壊れた箇所を見ても宜しいですか?」
「ああ」
男の承諾を得た後に、撫子は灯籠の一角を見ると、修理を要する箇所がすぐに見て取れた。
「これなら、修理にさほどお時間はかからないかと思います」
「良かった。それならお願い出来るかい」
「はい、これなら明日にはお渡し出来るかと思います。お名前とご連絡先をお預かりしても宜しいですか?」
「ああ、それなら帳簿を見てくれれば分かると思う。今迄何度か修理を頼んできたからね」
「そうなんですか? ……流水紋に、紫陽花の灯籠。あっ、ありました。でも、この灯籠を持って来られた方は、貴方とは別の方だったような」
「以前、君が応対してくれたと思うのだけど……」
「申し訳ございません。ここ最近は私が店番をしていますが……貴方は初めての客人だと思います」
「……、悪かったね。僕の記憶違いだったみたいだ」
「いえ」
人当たりのいい、何処か寂しそうな男の笑顔。
その貌を見た瞬間、何故か頭の奥底がジンと痛んだ気がした。
「それなら、この紙に名前と連絡先を書いておくよ」
「有難う御座います」
男は、カウンターの傍に置いてある紙束の一枚を千切ると、そこに達筆な文字を綴った。
「黛、夜一郎……さん」
「ああ。差し支えなければ、貴女の名前を伺っても良いかな」
「天城撫子です。撫子と呼んで下さい」
「そう。なら、撫子さんと呼ばせて貰おうかな」
「はい」
その、夜一郎と名乗った男は灯籠の修理代金を机に置くと戸口のほうへと足を向けた。
カラリ、と僅かな音を立てて戸口が開く。
けれど男はすぐに出て行くことはなく、数秒、戸口の前で佇んでいた。
「あの……まだ、何かご用が?」
「いや……、なんでもないよ」
なんでもないんだ、男は、灯籠を明日取りに来るとだけ言い残すと、そのまま店を出て行った。あとには――、
「香の……匂い?」
微かに、懐かしい香の匂いが、周囲に散っていた。