序章
ここはレガレス。またの名を不浄の街。その昔は純血人族の国たるルウィスベルトを構成する凡夫な町の一つだった。だが、度重なる小競り合いの末に獣者族の国と戦争となり、その折、諸々の理由から近隣に監獄が建てられたことが、変貌の発端であった。
始めこそ、警護を務める兵士らによって、町には益がもたらされた。そしてそれは以後6年もの間続く。
だが、6年目。戦争も終結が見えだした頃、事態は動く。とある一人の咎負いが、看守たちに反旗を翻したのである。
詳しく伝える者はおらず、監獄内でなにが起こったのか、憶測を立てるが精一杯。しかし事実として、監獄は咎負いたちによって乗っ取られ、更には町すらも掌握されたのだった。
――この時、収監されている咎負いが、そこらにいるようなくだらぬ犯罪者であったのなら、この事態はまた別の結末を迎えたであろう。
当時最高峰の技術によって建てられた監獄は鉄壁と呼ぶに相応しく、またこれは国の上層部によって握りつぶされた事実だが、獄長はいわゆる傀儡で表に出せぬ所業の数々を行うも容易であった。
それにかこつけて収監されたのは、戦線にて捕らえられた獣者、戦時下をいいことに偵察行為に勤しんでいた他種族のスパイ、軍規違反者の中でも危険因子と判断された者、とある組織の大幹部などなど、重要度が高く、また何をしてでも情報を聞き出したいような、そんな奴らばかりであった。
咎負いたちは決して協力的であった訳ではない。ただ、その胸の内に溜まるを吐き出すのが同じく外であった、それだけだ。
だがそれも、人族、獣者、互いの国が兵士を差し向けてくる、それまでの話。
咎負いのほとんどが、戦争を知っていた。国の考えを知っていた。だから、理解できた。
向かってくる兵士は、人族ならば民間人の救出で、獣者族ならば捕虜の奪還、そんな世間では善行と呼ばれるものの類ではないことを。
殺される。
汚点の精算に口封じ。元々、ほとんどが殺されたとて誰も文句を言いはしない。最悪、誰かが声を上げたとて、無理だったのだと言えばそれまでだ。
集団が纏まりを持つのに、道理も理屈も理由も必要ない。共通の敵さえいれば、武器を持って肩を並べられるのが生物だ。
ここに一つの勢力が生まれる。人に獣者を主として、水鬼や悪魔と混血種たちの、咎負いたちの連合。その数およそ400。向けられる両軍合わせて600の兵士に対して、剣を掲げた。
人、獣者。両軍はこれを知っても、何を思う訳でもなかった。所詮は即席の部隊。それもそこかしこから集められた有象無象の犯罪者たち。協力し、連携ができるなどと、考えすらもしていなかったのだ。
だが、現実は違った。
例えば戦地で捕らえられた獣者などは、存分にその力で戦線を築き上げ。
例えば他種族のスパイたちならば、その特有の力を用いた偵察能力は両軍の遥か上をいき。
例えば軍規違反者は、意趣返しとばかりに指揮及び作戦立案に躍起になり。
例えばとある組織の大幹部などは、その地位に上り詰めたカリスマでもって荒くれ者を纏めあげ。
その躍進たるや戦争に波風を立てるほど。とうとう咎負いたちは、正規の部隊と加えてその増援たちを完全に退けてしまったのだった。
その後、何度か再び兵士を差し向けられたのだが、ことごとく敗退。次第に国も対応に慎重になりだして、兵士を差し向けることもなくなった。
そして時が流れる。
その後何度かの争いを経て、現在ではレガレス一帯は誰が縛ることもない、完全なる無法地帯となっていた。
「おいおっさん、テメェ、何してんだよ」
並ぶ建物は石造り。地面もまた石畳であるのだが、誰が手入れをするわけでも、掃除をするわけでもない。変色し歪に磨り減りゴミは散り散り、元の姿など想像するのも難しい惨々たる姿を晒していた。
表の一番大きな通りとてその有様。建物と建物との間の細い道ともなれば、その悲惨さは語ることも難しい。
「なにしてるんだって、聞いてんだよ」
その入口に立ち、中を睨みつける一人の少年。名はラッカ。その声に怒気を含ませ、その鋭い黒の瞳に強固な意思を灯し、一歩、踏み入った。
「あぁ? 何してるって、そりゃぁ、ナニかしようとしてんのさぁ。なんだぁ、てめぇもシテェのか? ったく、餓鬼がさかりやがって」
瞳の先にいるのは二人の男。一人は痩せこけた頬をしていて、一人は焦点の合わぬもう手遅れな目をしていた。
「んんっ」
そして痩せこけた顔をした男は、若緑色の髪をした少女を組み敷いていた。
「――――っけんなよ」
ラッカの拳が固く握られる。もはや彼に理性はない。本能のまま、大地を蹴りどばして突進した。
「ざっけんなよこのクソ野郎! その汚ねぇ手ぇどけやがれ!」
拳が炸裂する。痩せこけた男は悲鳴を上げて吹き飛び、焦点を合わぬ目をした男の方は事態の把握に遅れ唖然として立ち尽くす。
「大丈夫か、フィー!」
「う、うん。大丈夫、だよ」
手を取られ、地面から引き起こされる少女。がしかし、腰が抜けていたようで、失敗して尻餅をついた。彼女の名は、フィー・ネクラシア。おっとりとした顔つきの、見目麗しい娘子である。その服は所々が引き裂かれ、肌には殴られた跡がある。だが、彼女は大丈夫と、繰り返しラッカに伝えた。
「なにしてんだよぉテメェ!」
ようやっと事態を理解した焦点の合わぬ目をした男が、怒声混じりにラッカに迫る。その手には小ぶりの刃物が握られていた。身の丈は男の方が高く、その手には武器、加えて男には狂った者特有の何をしでかすか分からない危険な雰囲気を放っていた。並大抵の精神力では、怯むなというのが無理な話。
だが。
「うっせぇ、耳障りだ!」
ラッカは怯むどころか踏み込んだ。
「くたばれやァ!」
振り下ろされる刃を躱し、懐へ。刃が頬を掠め、黒い髪の毛が空に散る。ぞわりと心中で感じ、その一歩を止めてしまってもおかしくはないというのに、ラッカの瞳はぶれることさえしなかった。己の行く末を悟り怯えた表情になる男に、更なる怒りを覚えつつ、その感情すらも拳に込めて、男を下から打ち上げた。
男の身体が宙に浮き、そして落ちる。ずしゃり、と嫌な音が路地に染み渡った。
「ひ、ひいぃいいいぃ!!!」
しぶとくも、痩せこけた男には立ち上がり、駆けるだけの余力があった。仲間の惨状に、情けない声を上げて逃げ出した。
「な、待――」
ラッカはそれを追おうと足に力を込める。
「待て、必要ない」
しかしそれを、路地の外からの声が阻む。
光の中に、影が現れた。その影は、濁った紅い瞳をしていた。迫る男の前に、悠々として立ちふさがった。
「じゃ、邪魔だどけぇ」
恐怖に駆られた男に止まるという選択肢はない。闇雲な突進で、目の前の壁を突き破ろうと試みる。
「……やれやれ」
影は呆れたように溜息を吐く。だが、次の瞬間その目つきは鋭くなり、突進してくる男を迎え撃った。
「はえ?」
男は何をされたか分からない。一瞬、浮遊感を感じたかと思えば、背中に激痛。ぱっと目を開けば映るのは、迫り来る拳。ごぎゃ、と嫌な音がしたかと思えば、鼻に焼かれているかのような痛みが走り続けていた。
「ムカつくな、お前」
男を見下す目は冷え冷えと。表に出ぬからこそ恐ろしい怒りというのをまさしく体現していた。
「まったく。怒りを覚えているのはお前だけじゃないんだ。一人で決着をつけようとするな」
「あぁ、悪ィな。ルフマ」
風で紫苑色の髪が揺れる。その男の名はルフマ・ナギク。その肌の色は病的なまでに白く、中性的で整った顔立ちに、どちらかといえば華奢な体躯も相まって、一見すれば女とも見える。その表情は平静そのものだが、深く強い怒りを覚えていることは、彼と付き合いの長い者であれば誰でも分かることである。
「あ……ぁぅぁぁぁぅ」
ラッカに殴り飛ばされた男は、地面に倒れ伏しながらも、その光景を目に焼き付けていた。顎は完全に砕けている。もはや恐怖で叫ぶことさえ叶わないが、それが功を奏して這いずり逃げるのを二人に気がつかせなかった。少しずつではあるものの、その身体は路地の奥へと向かっていた。腐ってもこの街で暮らしているだけはあり、その諦めの悪さと生命力とは、面倒なほどのしぶとさを誇っていた。
残るは数メートル。這っては速度などしれているが、気がつかれて逃げ切れるほどの余力は、流石に男にもない。ずり、ずり、と進み続ける。
と。
「逃げられる、なんて思ってないよね?」
「まったく、詰めが甘いんだから」
そんな男の前に、二つの影。
一つは茶髪の男。妙に明るい声で、その表情もまた同じ。だが、だというのに、その細く鋭い瞳孔の瞳は、男に不安な気持ちばかりを増幅させる。
一つは艶やかな黒髪が印象的な女。頭の上には獣耳、腰から伸びる尻尾。その姿は獣者のそれ。女として完成した身体付きを誇り、男が通常の調子であったなら、飛びかかっていたことは間違いないだろう。だが、睨みつけるその金の瞳はまさしく捕食者のもの。この時に限っては、畏怖を感じる他にできなかった。
「お仕置きは、ちゃんと受けなきゃさ」
茶髪の男――シオン・サウリアは、もはや不気味としか取れない笑みを保ったまま、動けぬ男に迫った。
黒髪の女――ミニエラ・サラスは響く悲鳴を背中に浴びて、路地の入口へと歩む。そして未だ腰を抜かして立てないでいるフィーを抱きとめた。
「大丈夫かい、フィー? ごめんね、怖かったろう」
気丈に振舞っていたのであろうが、その安心感が決壊させた。フィーは天と同じ濁りのない藍色の目から涙をこぼし、喉からは鳴き声を漏らし続ける。
「っくそ」
ラッカは己を叱責する。
「まさかお前がしっかりしていれば、なんて思っていないよな」
ルフマは、そんなラッカの心中を察して、苛立ったように声をあげた。
「調子に乗るなよ」
「あぁ?」
いや、ルフマは真実苛立っていた。ラッカのその思い上がりに。普段は努めて冷静であろうとしているが、ルフマは本質的にはかなりの短気である。覚えた怒りを溜めておくことは、できなかった。
「俺が目ぇ離さなけりゃ、こんなことにゃならなかった。違うかよ?」
ラッカとルフマの付き合いの長さは、ほとんど歩んできた人生と同じほどである。俗に、幼馴染と呼ばれる、そんな間柄。だからラッカも、口ではそう言いつつも、ルフマの言いたいところは理解していた。だが、それでも分からぬと、そうとしか口にはできなかった。
「あぁ、違うな」
ルフマもまた同じ。ラッカの思うところなど考えるまでもない。二人は、互いの心のうちを理解して、それ故に引けず、拳を握り固める。
「はいはいはいはいストーップ。今するべきことは、それじゃぁないでしょ? ほら、まずはフィーを安心できるところに連れて行ってあげなくちゃ、ね」
一触即発。そんな場面に踏み込んだのは、シオンであった。いったい何をしてきたのか。頬には血が伝い、手などは比べるまでもないほどに紅く濡れていた。変わらぬ笑顔がなお不気味である。
「……そうだな」
「…………」
拳が解かれる。二人はシオンについて、なんとか涙をおさめたフィーの元へ歩み寄った。
「まったく、馬鹿だねあんたらは」
サラスは責めるような視線で二人を見つめる。返す言葉もないと、二人は無言でその責を受け入れた。
「もう、大丈夫です。ありがとうございます」
フィーはサラスに支えられながらも、なんとか立ち上がる。そして深々と頭をさげた。
「お礼なんかいらないよー。ねぇ?」
シオンは上着を脱いで、フィーに被せる。それにまた礼を言おうとするフィーを制して、視線をラッカとルフマに向けた。
「ったりめぇだ、仲間、だからな」
「あぁ、当然の行いだ」
即座に答える二人。それはほとんど同時の出来事。言い終わった後になり、互いに苦い顔で睨み合った。
「はぁ、ほら行くよ。……まったく」
呆れた声のサラスを先頭に、五人は路地を出て、街を歩く。
彼ら――彼女ら五人は、数奇な運命の元に出会い、そして共に時を過ごしていた。くそったれなこの場所で、互いに支え合い、助け合いながら、生きていた。