Bloody night 1
ライブ当日、アーロンはスペンサーの事務所が用意してくれた関係者席を辞退して姉のイリーナが努力して手に入れたファンクラブ優先席で婚約者の勇姿を見ることにした。
あらためて会場を見渡したアーロンは詰めかけた観客が発する期待のエネルギーに自分の婚約者の属するバンドDELUGEの人気を今更ながらに実感した。
その人気はバネッサがオーデションを受けて落ちたデスメタルバンドの大御所Dunkelheitと肩を並べる、いや今ではそれ以上の勢いだった。
人気急上昇中にヴォーカルのバネッサが婚約を発表するというかつてない掟破りもまたファンからの支持を得たのだった。
「それにしても警備のスタッフの数がやけに多いよな」
とアーロンは姉に不安をもらした。
「そうよね、ボディチェックも形だけじゃなかったわね」
とイリーナ。
姉弟の心配をよそに両親は将来の息子の伴侶のステージをワクワクして待っていた。ロックなど聞く習慣のなかった両親が通勤の車の中でもキッチンでもDELUGEのCDを聞いていた。特に上品な母親がキッチンでときどきデスボイスを真似して歌っているのは微笑ましかった。
アーロンのみならずハイリネン家の全員にバネッサは愛されていた。
ライブが始まった。小柄な黒豹を彷彿させるバネッサの全身のどこからこの声量がほとばしり出るのか不思議なほどのデスボイスが炸裂した。
バンドもかつてストリートで演奏していたとは思えないレベルの高さで(もちろんデビューが決まってからのレッスンはハンパないものだったが)特にギタリストのポールのテクニックは市井に埋もれていたとは信じがたい職人技だった。
他バンドからの引き抜きをクリスが本気で心配するくらいだった。
そしてアーロンもイリーナも両親も、会場全体が文字通りDELUGEの洪水に飲み込まれた。
イリーナは銀色のロングヘアを振り乱しヘッドバンギングしていた。母親も娘を真似て同じように首を振ってみた。父親の体も爆音に乗って揺れていた。
『姉さん、むかし日本で見た赤い髪と白い髪を振り回すKABUKIみたいだよ。母さんは明日から1週間は筋肉痛だな』
腕を振り上げながらアーロンは笑った。
ステージ上のバネッサも歌いながらアーロンを探した。アーロンよりも先に姉のイリーナを見つけた。確かにイリーナのヘッドバンギングは凄まじかった。その横に恋人の姿を見つけたバネッサのテンションはMAXとなった。
ハイリネン一家の席に隣接されて車椅子専用スペースが設けられていた。10人くらいの車椅子を利用しているファンが腕を振り上げ、体を揺らして会場と一体になっていた。
ふいにその中のひとりの男が立ち上がった。
「あれ? 足、不自由じゃないんだ」
疑問に感じたアーロンが次に見たのはその男が突き出した腕の先に鈍く光る、それは拳銃だった。
バネッサがアーロンに向けていつもと違うアクションで大ジャンプしてウィンクした時。
「バネーッサ!」
アーロンの命懸けの叫び声と銃声が重なった。
しかしデスメタルバンドの爆音はそれらをかき消していた。
アーロンは見た。ジャンプしたバネッサの不思議そうな表情が歪んで固まった。歌声が途絶えた。
そのままステージに崩れ落ちたバネッサ。演奏もストップした。会場内の歓声が悲鳴に変わった。
ポールたちメンバーが最初に駆け寄り、それからスタッフが集まった。
偽障がい者を装った車椅子のスナイパーはすでに大勢の警察官によって床に押し付けられていた。
アーロンはステージに向かって駆け出した。何人もの私設警備員に取り押さえられそうになったがそれらを力ずくで突破するアーロン。誰もアーロンの必死の勢いを止めることはできなかった。
ステージによじ登ったバネッサの婚約者でもあるアーロンの顔をさすがにスタッフは知っていたが、それだからよけいバネッサのそばに近寄らせないように数人がかりでアーロンを制した。
「バネーッサ! バネッサ!」
スタッフをふりほどいたアーロンが見たのは血の海に横たわる愛しい人の姿だった。
「バネッサ!」
今の状態では抱き起こすこともできずバネッサの側らで声をかけることしかできないアーロンに、薄く目を開けたバネッサの声にならない声がかすかに聞こえた。
「……アーロン? 何が起きたの?」
そしてバネッサは意識を失った。意識を失っただけであって欲しいとその場の全員が祈った。
会場にいたファンの中から医療関係者数名が名乗り出て積極的に救命措置を施し始めた。
「救急車はまだかよ!」
その手を恋人の鮮血で染めたアーロンの悲痛な絶叫が響いた。
「死ぬな、バネッサ! 」




