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6.僕の知らない麻木先生

 無事に鯉大将を水槽に帰すと、魔法のように笹船は消えた。

 鯉大将は何事もなかったかのように、水槽の中を悠々と泳いだ。これですべてが元通り、一件落着だ。やっと家に帰れると思うと、どっと疲れがのしかかった。

 校長室を出て、重い足取りで廊下を歩く。隣の職員室の扉が少し開いていた。何故かそれがとても気になって、扉の隙間からそろりと中を覗いた。

 僅かばかり出勤していた教師たちの姿はなく、室内はがらんとしていた。それもそうだ。まだ明るいとはいえ、既に夕方五時をまわっている。

 窓際に、見覚えのあるシルエットが一つあった。瘦身に白衣を纏った麻木先生が、煙草を吸いながら開けた窓の外を眺めていた。

 職員室は禁煙だ。見なかったことにしようと思ったが、ふと、あの不法侵入の猿がどうなったのか気になって、僕は扉に手をかけた。

 お盆休みの学校は、とても静かだ。

 自分の呼吸の音すら、誰かに聞かれているのではないかと思うくらいに。

 だから、囁くようなその声も、廊下に立った僕のもとまで届いた。


「――お前があの猿をけしかけたんだろ?」


 麻木先生の声だ。今、職員室には先生しかいない。けれど、その声ははっきりと、誰かに対して話し掛けていた。


「お前がお盆で暇なのはわかってるけどな、だからって暇潰しに猿を寄越してくるな。風呂の栓なんてそっちでいくらでも見つかるだろ? わざわざ人のもんに手ぇ出して面白がるなよ」


 僕は無意識に息を止めた。先生は僕に気付かないまま、窓の外に向かって煙を吐き出す。その一瞬の煙幕の中に、先生の頬に向かって伸びた手が視えたような気がして、目を瞠った。

 先生は、笑った。

 目の前の、誰もいない空間に向かって、ひとり。


「――はは、お前は相変わらずだな」


 どこか憂いを帯びたその呟きに、心臓が高鳴った。

 僕には、人の目には視えないものが視える。

 それと同じように、麻木先生もまた、僕には視えない世界を視ているのだ。

 これまでずっと、視えない側の人間とばかり出会ってきた。そのせいで、嫌な思いをしたこともたくさんある。だから僕はどこか、自分だけがみんなと違う世界を視ているのだと思い込んでいた。

 けれど、そうじゃない。


 人はそれぞれ、違う世界を視ている。

 僕も、水藤も、麻木先生も。


 そうしてお互い、少しずつ重なった小さな世界の中で、僕らはともに息をしている。

 ただ――それだけのことだったのだ。

 今更ながら気付いた事実に鳥肌が立ち、僕は思わず腕を抱えた。

 河童にぶっかけられた水は乾き始めているものの、まだシャツの大部分が濡れたままで、僕は堪えきれずにくしゃみをした。

 麻木先生が肩を震わせて振り返った。

 先生は一瞬何かを探るような目をしたが、すぐにいつもの、気怠げな表情を浮かべた。


「何だ、雪島か。お前まだいたのかよ。そんなに学校が好きか?」


 僕は首を横に振りながら、立て続けにくしゃみを連発した。先生は煙草の火をもみ消すと、こちらへ歩いてきた。


「うわ、お前、ずぶ濡れだな。プールにでも飛び込んだのか? 水藤じゃあるまいし。いくら真夏だからって、これじゃ風邪ひくぞ」


 先生は手近な棚にあった、粗品と書かれた袋から勝手にタオルを取り出すと、僕の頭に乗せた。先生は何故かそのまま僕の頭をガシガシと拭き始める。疲れ切っていた僕は大人しく突っ立ったまま、ぼんやりと先生を見上げた。

 先生の白衣の袖口から、ふわりと煙草の匂いがした。途端、さっき視た光景が頭を過る。


「――あの、先生」


「なんだ?」


 先生は、本当は――

 訊こうとしたことは、結局、口内で消えてしまった。

 あれはきっと、僕には視ることが叶わない景色なのだろう。

 そこに何が視えていたのかは、先生だけが知っていればいい――そう、思った。

 僕は言いかけた言葉の代わりに、


「先生、職員室って禁煙ですよね?」


 と言った。

 先生は悪戯がバレた子どものような顔をして、人差し指を唇に当てた。


「俺とお前だけの、秘密な」


 こうして僕の夏休みが終わった。






 新学期初日。

 僕が席につくや否や、後ろから声がした。


「――なあなあ、雪島」


 後ろから肩を叩かれ、僕は一旦息を吸う。


「なあ」


 振り向くか、無視するか。


「なあなあ」


 繰り返されるごとに大きくなっていく水藤の声に、頭の中で審議する。


「なあなあなあなあ雪島ってば!」


「ああもう、うるさいなあ!」


 思わず振り向いて後悔した。

 夏休みを満喫して日焼けした水藤は、白い歯を見せて満面の笑みを浮かべていた。


「昨日さ、肝試しに行ったらさ、こんなもの見つけたんだ――」


 その手に握られていたのは、見るからに怪しげなお札のようなもので、僕は水藤の目を盗んでこっそりと、溜め息を吐いたのだった。





おわり

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