5.校長室の鯉大将
お盆休みの学校は、とても静かだ。
汗だくになりながら、また薄暗い校舎に足を踏み入れた。
瞬間、目の前が暗くなって、立ち止まる。じんわりと視界が正常になるのを待ちながら、僕はこの状況を作り出した元凶の顔を思い浮かべた。
そもそも水藤があんな石を釣り上げなければ、こんな目に遭わずに済んだのだ。
想像の中ですらへらへらと笑う水藤に無性に腹が立ち、僕は誰もいない廊下に向かって愚痴を吐いた。
「……あいつ、絶対疫病神か何かだ」
物音のしない職員室の前を通り、校長室に辿り着く。幸運にも校長先生は不在だった。僕は心の中で謝罪しながら部屋に入り、飾られていた水槽の前に立った。
「これ、か……?」
大きくて立派な水槽の中には、予想に反してとても小さな鯉が一匹、泳いでいた。僕の人差し指くらいの大きさだ。随分と心もとないが、水槽は一つだけしかないうえに、他に泳いでいる魚もいない。
「……あの、鯉大将さんですか?」
取り敢えず声を掛けてみると、呼応するように鯉は口をパクパクさせた。何を言っているのかまったくわからないが、きっと肯定してくれたのだろうと、前向きに受け取ることにした。
鯉を持ち運ぶための容器がないかと探してみるが、ちょうどいい大きさのものがない。仕方なく、水槽に両手を差しいれて、水ごと掬いあげた。
慎重に校長室を出て、そろりと廊下を歩く。
振動にあわせて水滴が一滴、二滴と零れ落ちる。早く池に辿り着きたいが、歩くスピードを速めると今度は水が零れてしまう。ジレンマを感じながら、どうにか校舎を出る。その間にもどんどん水位が下がっていき、ついに鯉の頭が水面に出てきてしまった。
「あとちょっとだから、頑張ってくれ」
鯉にも自分自身にも言い聞かせながら、学校の敷地の裏手に回る。今しがた、五分ほどで戻って来た道が、永遠にすら感じられた。
何とか池に辿り着き、有刺鉄線を潜ろうとしてバランスを崩した。なけなしの水が腕を伝って流れ出る。
「しまっ……」
いよいよ鯉の全身が空気に触れた。するとどういうわけか、鯉がムクムクと大きくなった。最初僕の指ぐらいのサイズだったはずが、今や両の手の平の中で窮屈そうに尾びれを揺らしている。
「河童! 鯉大将を連れてきたぞ!」
池の穴を眺めていた河童が、僕の声に振り向いた。
『おお! 待ちわびたぞ!』
「でも、何だかこの鯉、大きくなってる気が――わっ!」
河童の方を余所見したせいで、すべての水が指の隙間から滴り落ち、反対に鯉はどんどん巨大化していった。抱き枕ぐらい大きくなった鯉――否、鯉大将を抱える腕が震える。
『鯉大将、頼む! 我ら一族を吸い戻してくれ!』
河童が叫ぶ。
――合点承知。
腕の中から、地の鳴るような低い声が響いた。鯉大将はその大きな口を極限まで開くと、思いっきり息を吸い込んだ。
「わ、わわ……!」
吸引力が売りの掃除機の如く、鯉大将は池の周囲の雑草や、石ころなどありとあらゆるものを巻き上げた。河童も僕も飛ばされないように足を踏ん張る。
やがて池の穴からぼこぼこと音がして、小さく水しぶきが上がった。それを皮切りに、一気に水柱が上がり、ザリガニや魚や藻とともに緑色の生物が次から次へと穴から飛び出してきた。
『ち、父上ー!』
河童は自らの尻を犠牲にした父親と再会を喜び合った。僕にはどの河童も同じに見えるが、やはりお互い見分けがつくようだ。
時間をかけて池の生態系が戻っていく。最終的に一族全員の帰還を確認してから、河童が穴に栓をして、池は完全に元通りになった。
それを見届けたところでとうとう腕が限界を迎え、僕は背中から雑草の上に倒れ込んだ。鯉大将は僕の上に乗っかったまま、水もないのにビチビチと飛び跳ねた。
「うう、くるし……」
鯉大将に圧し潰されかけてもがいていると、河童が池から水を汲んできて僕もろとも鯉大将にぶっかけた。水を被った鯉大将はみるみるうちに縮んでいき、僕は咳込みながら肺に酸素を取り込んだ。
『世話になったな、坊主。池の水も一族も無事に戻ってきた。感謝するぞ』
河童はそう言うと、笹船に水を汲んで、また指くらいの大きさに縮んだ鯉大将をその中に浮かべた。
『すまんが最後に一つ、頼まれてくれないか。鯉大将を元の場所に帰してやって欲しい』
「ったく、人使いが荒いな。さっきの瞬間移動を使えば一瞬だろ? 自分で行けよ」
散々振り回され疲労困憊の僕は、顔を顰めてそう言った。だが河童は申し訳なさそうに言い訳する。
『あの術は日に一度しか使えないのだ。拙者はこれからこの池に人間が近づかないよう結界を張り直さなくてはならない――ああ、そうか』
河童は合点がいったというように、手のひらをポンと拳で叩いた。
『謝礼がまだだったな。どうだ、坊主さえよければ拙者の妹をくれてやる。何なら我らとともにこの池で暮らすというのは――』
「じゃ、じゃあ、僕はこれで。鯉大将を水槽に帰してやらないとな!」
変な方向に話が流れる前に、僕は笹船を両手で抱えて退散した。
背後で河童が何かを喚いていたが、もう何も聞こえないふりをした。




