4.裏の池の異変
再び教室に戻ると、河童はきゅうりを食い散らかし、床の上で膨れ上がった腹を撫でていたところだった。河童は僕が握っていた石を目敏く発見するや否や、
『でかしたぞ坊主!』
と、石に飛びついてきた。その自分勝手な態度に溜め息を吐きながら、僕は床に散らばったままの鞄や問題集を拾った。
あれだけ派手に割れたはずの窓ガラスは、何故か元通りになっている。
「窓、お前が何かしたのか?」
僕は石に破損がないかじっくりと確かめている河童にそう訊いた。
『いやいや、あれはただの幻覚の一種だ。実物が割れたわけじゃない。少しばかり力のある者がよくやる芸当だな』
「……その割にはめちゃくちゃびびってたよな?」
『うるさい! 我ら河童一族は大きな音に弱いのだ! 断じて拙者が弱虫というわけではないぞ!』
「そうか。まあ、何でもいいよ。石も取り戻せたし、僕はこれで――」
鞄を抱えてさりげなく教室を出ようとした僕の腕を、ぬめり気のある河童の手が掴んだ。
「――まだ、何か?」
池の栓は無事に回収できたのだ。これ以上僕が河童に付き合う義理はないはずだ。
『うむ、どうにも嫌な予感がするのだ』
「はい?」
『坊主! 行くぞ!』
「行くってどこに――うわああ!?」
河童が僕の腕をグイッと引っ張ったその瞬間、景色がぐにゃりと混ざり合った。
細くなったり太くなったりする河童に引きずられ、目まぐるしく変化する不思議な空間を通り抜けるとそこは、学校裏にある荒れ地だった。
河童は膝丈まで伸びきった雑草を掻き分けて、ずんずんと歩いて行く。僕はしばらくその場で呆けていたが、河童の甲羅が見えなくなりかけて、慌ててその背中を追い駆けた。
噂に聞く通り、鬱蒼とした場所だ。
池の周りは有刺鉄線が張り巡らされていて、立ち入り禁止の看板も立っている。しかもよくよく見ると、その下には「河童出没注意」と書かれていた。鉄線はところどころ曲げられていて中への侵入は簡単そうだが、わざわざここに来て釣りをしようなどとは思えない。やはり水藤は、どうかしている。
『ああー!』
という河童の大袈裟な叫び声が耳を貫いた。
僕は河童に続いて、張り巡らされた有刺鉄線の隙間を潜る。すぐに異変に気付いた。
池に――水がない。
池の底が完全に剥き出しになっていた。僅かばかり残った水溜まりの中で、小魚がピチピチと跳ねている。
「何があったんだ……?」
膝から崩れ落ちた河童は、あったはずの水面を眺めるように池の底を見た。
『――嫌な予感が当たってしまった。父上の尻が、ついに耐え切れなくなったのだろう。池の水もろとも、一族みな、穴に吸い込まれて行ってしまった……』
池の中央には、ぽっかりと小さな穴があった。ちょうど、あの石の栓がはまるくらいの大きさだ。
「……こんな小さな穴に?」
『この池の穴は、一度栓が抜けてしまうと、すべての物を流しつくさないと気が済まないのだ。池の中にあるものは、大小関係なく飲み込まれてしまう。嗚呼、父上が持ち堪えている間に栓を取り戻せなかった、拙者のせいだ……』
きゅうりに夢中になっていた時間のことを指摘してやりたかったが、おいおいと嘆く河童に追い打ちをかけるのは、さすがの僕も気が引けた。
「この穴の先は、どこに繋がってるんだ?」
その質問に、河童があまりにも悲壮な表情を浮かべたので、僕はドキリとした。
まさか、遠くに行ってしまったというのだろうか。
もう二度と会えないほど遠くに――
『……この穴は、あそこの四角いところに繋がっているのだ』
河童の緑の指がさした先は、学校の――プール。
「近いな!?」
ちょっと不穏な気持ちになってしまったのが恥ずかしくなり、思わず声を荒げた。河童は肩を落としたまま、力なく首を横に振った。
『だが、この穴は吸い込むだけの片道切符。例えこの距離であっても、向こうからこちらの池に戻って来ることはできないのだ』
「何か手立てはないのか?」
河童は腕を組んでしばらく悩んだ。
『……うーむ。鯉大将の手を借りられればあるいは』
「鯉大将?」
初めて聞く名前に、僕は眉を顰める。河童は頷いて、再び緑の指を学校の校舎に向けた。
『鯉大将は、お主の通う学校とやらの、一番偉い人間が飼っているのだ』
「校長先生が?」
『代々飼い続けて、百五十年余り経つらしい』
「うわ、長生きだな……」
『だからこそ、鯉大将はここらでは一番の力を持っているのだ』
果たしてその鯉大将とやらが、この状況を解決するためのどんな力を持っているのか。河童に尋ねるよりは、実際に連れてきた方が早そうだ。
「とにかく、その鯉がいれば何とかなるんだよな?」
僕は再び雑草を掻き分けて、学校に戻った。




