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3.神の使いの猿

  激しい音とともに、外に面した窓ガラスが割れた。

 僕は咄嗟に頭を庇って床に伏せる。落ち着いてから恐る恐る顔をあげると、きゅうりを咥えたまま河童が固まっていた。

 その河童の頭上を軽々と飛び越えて、机の上に華麗に着地を決めたのは、茶色い毛に全身覆われ、顔と尻だけが赤い生き物だった。


「――猿だ」


『失敬な。我こそは神の使いであるぞ』


「あ、喋る系の猿だ」


 率直な感想が気に入らなかったのか、猿は歯を剥き出しにして威嚇してきた。思わず僕は後ずさる。猿はその隙をついて僕の足元に転がっていた石を奪取すると、再び机の上に飛び乗った。


「あ、ちょっと、それは……」


『我は主より、壊れた風呂の栓の代わりになるものを見つけよとの命を受けた。この石は大きさも形も丁度良い故、頂戴する』


「ふ、風呂……? あっ!」


 僕が戸惑っている間に、猿は石を懐に抱えて教室を飛び出した。


「おい河童! 大事な池の栓が盗まれたぞ! いい加減目を覚ませ!」


 いまだ窓ガラスが割れた衝撃から回復しない河童の肩を揺すり、僕は叫んだ。河童はようやくハッと我に返ると、悔しそうにきゅうりを握り締めた。


『せっかく見つけた栓をまた盗まれてしまうとは! 何たる失態! 池の栓が見つかるまでの間、父上が自らの尻を犠牲にして栓の身代わりとなっておるというのに……あんな猿めにやすやすと栓を奪われてしまっては、もう二度とみなに顔を合わせられぬ……!』


 河童はきゅうりを齧りながら、さめざめと泣いた。とても気になる内容がサラッと流れていったが、突っ込んでいる暇はない。僕は咳払いをして、河童に言った。


「きっとまだ、そう遠くヘは行ってないはずだ。僕は校内を探してくる。戻って来る可能性もあるから、お前はここにいてくれ」


 僕は河童を残して廊下に出た。少し進んだところで足を止め、来た道を振り返る。

 猿に石を横取りされたところで、僕には何の不都合もない。河童も猿も放置して、このまま家に帰ってもいいはずだ。

 けれど、僕は再び前を向いて歩き出した。

 河童に同情したわけでも、使命感に燃えているわけでもない。

 ただ人ならざるものたちとの関りは、中途半端にしておくのが一番厄介なのだと、身をもって学んだのだ。僕が今日無事に家に帰るためには、とにかく池の栓をあるべき場所に戻さなければならない。

 猿はなかなか見つからなかった。教室のある二階から上にあがってみたが、三階にも、四階にも、猿どころか人影もなかった。

 仕方ないので、今度は一階までおりていくことにした。

 体力お化けの水藤と違って、僕は運動が大の苦手だ。少し階段をのぼりおりしただけで、息が切れる。汗を拭いながら踊り場で息を整えていると、見下ろした先の廊下をサッと小さな影が横切った。


「こら、待て!」


 僕は慌てて階段を駆けおり、影を追った。

 長い廊下の真ん中あたりで立ち止まった影は、やはりあの猿だった。


『――ほう、我を追ってここまで来たか。なかなかやるな』


 猿はそう言って、挑発するような目線を送ってきた。僕がにじり寄っても逃げる素振りも見せず、むしろ遊んでやろうという余裕さえ感じられた。

 僕は猿と数メートルの距離を保ったまま、どうやって石を奪還したものか考えを巡らせた。だが、まるでサウナのような蒸し暑さのせいでほとんど頭が回らない。

 イチかバチか――無謀とわかっていながら、腰を低くして、床を蹴ろうとしたその時。


「廊下は走ったら駄目だぞ、雪島」


 唐突に響いた聞き覚えのある声に驚き、思わず振り向こうとしてバランスを崩した。よろめいた僕の肩を背後から支えてくれた人の顔を見上げると、それはやはり麻木先生だった。


「先生――」


 先生は僕に目配せすると、その目を迷うことなく数メートル先へと向けた。

 麻木先生の目は、はっきりと猿を捉えていた。

 僕が息を呑むと同時に、先生は普段の鈍い動きからは想像もつかないほどのスピードで何かを投げた。橙色の、やや丸みを帯びた四角形のそれは――


「――か、柿!?」


 一直線に廊下を駆け抜けた柿は見事、猿の頭にぶつかった。

 猿は悲鳴もあげずにバッタリとその場に倒れた。猿の手を離れた石が僕の足元まで転がってくる。先生が柿を拾いに行っているうちに、僕はこっそりそれを回収した。


「先生、なんで柿なんか持ってるんですか?」


 柿なんて季節外れだし、たまたま持ち歩くようなものでもないはずだ。

 ついでに猿も拾って戻ってきた先生に、僕は自分が今日一日きゅうりを持ち歩いていたことを棚に上げて尋ねた。先生は頭を掻きながら、「あー、いや」と言葉を濁す。


「……今日のラッキーアイテムだったから、ポケットに入れてたんだよ。ほら、朝の情報番組の占いコーナー、あるだろ? 詐欺師みたいな顔した占い師がやってる」


「ああ……」


 僕は肯定とも否定ともつかない、曖昧な首の振り方をした。あの胡散臭い星座占いコーナーを信じている人が、まさか僕以外にもいるとは驚きだ。

 先生は、すぐに話を逸らすように言った。


「ところでお前、こんな時間まで何やってるんだ? 補習はもうとっくに終わっただろ」


 今度は僕が挙動不審になる番だった。


「ええと、その……」


 水藤から押し付けられた石が実は学校裏の池の栓で、それを取り戻しに来た河童と揉めていたら、猿に石を横取りされてしまったんです――なんて、言えるはずもない。

 先生は口ごもるばかりの僕をジッと見ていたが、やがて視線を落とし、小脇に抱えている猿を指さした。


「それと、まだ伸びてるこの猿は、お前のペットか?」


「あ、いや、違います」


「……そうか、ならいい。これは俺が何とかしておくから、お前はさっさと帰れ」


――盆休みの学校に長居しても、いいことはないぞ。


 先生はそう言い残して、立ち去った。

 僕は遠ざかって行く先生の背中を見送りながら、その場に佇んだ。

 不意に蝉の声が聞こえて、暑さが舞い戻る。呼吸を忘れていた僕は、何度か大きく息を吸ってから、歩き出した。




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