3-08 氷の薔薇と消えた令嬢の幸せな結婚 ~金と権力ですべてをねじ伏せる~
平民出身の冒険者十六歳、エレンシア・ルヴェは、婚約者で弓使いのルシヴァンと共に、「氷の薔薇」を求め呪われた洞窟に挑む。
しかし「氷の薔薇」に触れた瞬間、ルシヴァンは岩壁に呑まれ、どこかの〈中〉へと封印されてしまった。残されたエレンシアの目前には、氷の薔薇に結ばれた紙が現れる。
『氷の薔薇を食べれば十歳若返る。封印解除の条件は――
一、侯爵位以上の爵位
二、莫大な可処分資産
三、強大な魔力』
十六歳から六歳へと若返り、氷の薔薇の精霊を身に宿したエレンシアは、没落寸前の侯爵家に拾われる。名も身分も変え、やがて社交界から姿を消し「消えた令嬢」と呼ばれるまで。
金と魔法と政治を総動員し、世界をねじ伏せる逆転劇を繰り広げる。
岩に呑まれた婚約者を奪還し、自分の「幸せな結婚」をこの手でねじ曲げてでももぎ取る、令嬢の執念の物語。
岩が、飲み込んでいく。
「ルシィ!」
エレンシアが叫んだときには、ルシヴァンはもう肩まで灰色の岩壁に呑まれていた。
スレイバン山脈の奥深く。ひたすら寒いだけが取り柄のこの洞窟。その最奥――小さな祭壇の上に鎮座していた、透きとおる青白い薔薇にルシヴァンが指先で触れた。そのほんの刹那のことだ。
エレンシアは青い瞳を見開いたまま金の髪を振り乱し、消えかけている婚約者へと走り寄ろうとする。
「俺には構うな、エリー」
岩に埋まりかけた顔が、こちらを振り返った。短く癖のある黒髪がふわりと揺れ、翠の瞳がいつもみたいに、からかうような笑みを浮かべる。
「氷の薔薇をギルドに届けて、報酬を受け取れ。お前は外に出て、幸せに暮らせ」
「嫌よ、そんなの!」
喉が裂けるほど叫んでも、岩は容赦なくルシヴァンを呑み込み続けた。
じゃり、と石が擦れる鈍い音。ルシヴァンの胸、腕、指先。最後に、こちらへ伸ばされた手だけが、洞窟の暗がりのなかで頼りなく揺れた。
それすらも岩の表面へと溶けていく。
「ルシィ!」
悲痛な声が、がらんどうの空洞に反響し、何度も何度も返ってきた。
――数々の罠をかいくぐって、モンスターも片っ端から倒して。
ようやく辿り着いた最奥で手に入れたのは、氷の薔薇ではなく、婚約者を呑み込む洞窟の呪いらしい。
膝が崩れそうになるのを、エレンシアは歯を食いしばってこらえた。
泣くのは後。取り乱すのも後だ。
まずは、状況を把握しなくっちゃ。何か方法はあるはず。
「……ルシィ?」
エレンシアは恐る恐る、さっきまでルシヴァンがいた岩壁に手を伸ばす。冷たく硬い感触。どこを撫でても、ただの岩の表面。肉も骨も筋肉も、そこには何ひとつ感じられない。
それでも――。
耳をすませば、たしかに聞こえた。
『……エリー』
とても遠くから響いてくるような、ルシヴァンの声。
『俺は、どこかの〈中〉に封じられたらしい。多分、生きてる。苦しくはない』
「苦しくないなら、よかった……じゃないわよ!」
思わず怒鳴り返す。
よかった、じゃない。よくない。全然よくない。
エレンシアは激しく首を横に振った。
封じられているのなら、解けばいい。それだけの話――のはずなのに。
『氷の薔薇に、紙が結ばれているだろ』
ルシヴァンの声が、岩の向こうからかすかに響く。
『さっき、俺も見えた。それ、多分、ヒントだ』
「紙?」
エレンシアは慌てて祭壇のほうを振り向いた。
洞窟の奥突き当たり。石を積んで作った拝殿らしきもの。その中央に、ひっそりと置かれた氷の薔薇。
透きとおる花弁は淡く光を帯び、青とも白ともつかない冷ややかな色だ。茎も葉も、すべてが薄い氷とガラスのあいだみたいな物質でできている? なのに、溶けずにそこにある。不自然なまでの美しさ。
ほんの数秒前まではなかったはずなのに――その茎の途中に、小さな紙片がきゅっと結びつけられていた。
「……さっきまでは、なかったわよね」
『俺が触ったときに、発動したんだろうな』
ルシヴァンの声が、かすかに笑う。
『悪い。いつもみたいに先走った』
「今それを謝られても、全然許さないんだから」
文句を言いつつ、エレンシアは祭壇ににじり寄る。
氷の薔薇に近づくだけでも、肌に刺さるような冷気が頬を撫でた。吐く息が白くなり、指先がしびれる。
(触ったら、わたしも岩に呑まれる?)
一瞬、そんな不安が脳裡をよぎった。
わたしもルシィと同じように封じられてしまうかも? ふたりでどこかの〈中〉に閉じ込められる?
――同じ場所ならまだしも、別々の可能性のほうが高そうだ。
「……ごめん、ルシィ」
エレンシアは自分の両手をぎゅっと握りしめ、首を振った。
「一緒に封じられるなんて、絶対にダメ。絶対に絶対に! わたし、ルシィを助け出す」
そのためなら、なんだってする。
自分でそう決めた瞬間、胸の奥の震えが少しだけ静まった。
エレンシアは息を整え、氷の薔薇へそっと手を伸ばす。
ひたり。
指先に触れたのは、想像していたような凍てつく冷たさではなく、ガラス細工めいた硬く滑らかなヒンヤリ感だった。弾き飛ばされもせず、岩に引きこまれもしない。
「……触れたわ」
『そうか』
ほっと息を吐くようなルシヴァンの気配が、岩の向こうから伝わってくる気がした。
エレンシアは慎重に茎を持ち上げ、結びついている紙片をほどく。
細く折りたたまれたそれを、震える指で開いた。
そこには、見慣れた流麗な字が躍っている。
『氷の薔薇、食べると苦しむけど十歳若返る。らしい。俺はこのまま封じられて時が止まるみたいだ。食べて、封印を解く条件を満たすように、育って? いや、俺のことは見捨ててくれ。条件キツすぎだ……氷の薔薇をギルドに届けて報酬を受け取れ。――ルシヴァン拝』
「……勝手に諦めてるんじゃないわよ、この馬鹿」
思わず紙を握りしめた。
続きの文字が、視界の端に飛びこむ。それは見慣れない、装飾過多な古い書体だ。
『封印解除に必要な条件――
一、侯爵位以上の爵位
二、莫大な可処分資産
三、強大な魔力
これを備えた者が、氷の薔薇の祝福を受けし者として扉を開く。
追加条件は、薔薇を食した後に告げられる』
「……は?」
間抜けな声が漏れた。
「ちょっと待って。侯爵位以上? 莫大な財産? 強大な魔力? どこのおとぎ話よ」
エレンシアは紙と自分を、交互に見下ろす。
生まれも育ちも、カイリス街のごく普通の――いや、どちらかといえば貧民区寄りの雑多な路地。
冒険者ギルドには所属しているものの、正式な身分はただの平民。魔法だって、ちょっとした火を灯したり、風を起こせる程度の駆け出しレベルだ。
侯爵なんて、人生で一度挨拶できれば御の字。完全に高嶺の花。
『……な? だから、俺のことは――』
「黙ってて、ルシィ」
エレンシアは紙から目を離さずに、きっぱりと言った。
「絶対に助ける。絶対よ。なんだってする」
洞窟の空気が、決意めいたエレンシアの声を拾って震えた気がした。
氷の薔薇を食べれば十歳若返る。
今、十六歳だから、六歳の子どもになってしまう。
ここで食べたら、この凍える山脈を六歳の体で下りなくちゃいけない。それは、さすがに無謀すぎる。
「……一度、外に出てから、ね」
エレンシアは氷の薔薇をそっと胸に抱え直した。
と、紙の裏側に淡い光がにじみ出る。
『氷の薔薇を食した者には、精霊が宿る。
精霊は主を侯爵家に導き、必要な縁と財をもたらすだろう』
「……精霊」
聞き慣れない単語ではない。けれど、そうそうお目にかかれる存在でもない。
エレンシアは息を呑み、氷の薔薇を見つめ直した。
さっきまで、ただの〈美しい呪い〉にしか見えなかったそれが、少しだけ違って見える。
この中に、まだ見ぬ〈何か〉が眠っている。
わたしを、想像もつかない場所へと叩き込む何かが。
「……上等じゃない」
唇の端が、自分でも意外なくらいきゅっと持ち上がる。
「侯爵だろうが、莫大な財産だろうが、強大な魔力だろうが、全部手に入れてやるわ」
金と権力で全部ねじ伏せて、ルシヴァンを取り返す!
そのうえで、その先にちゃんと〈幸せな結婚〉ももぎ取ってみせる。
洞窟の天井から、ぽたり、と水滴が落ちた。
それが合図のように、エレンシアはくるりと踵を返す。
「ちょっとだけ待っててね、ルシィ」
岩壁に向かってそう告げ、エレンシアは氷の薔薇を胸に抱き、洞窟の最奥を後にした。
――この時のエレンシアは、まだ知らなかった。
氷の薔薇を食べて六歳に戻ったエレンシアが、没落寸前の侯爵家に拾われ、「消えた令嬢」と呼ばれるまでの、長くて派手で、やたら物騒な日々の始まりであることを。
*
確か街外れに、跡継ぎのいない没落貴族家があったはず。
洞窟を駆けながら、エレンシアは思い出していた。
洞窟を飛びだし、放牧させていた愛馬を呼び寄せる。山を下り、たどり着いた没落貴族の城は想像以上に荒廃していた。
ここに間違いないけど……まるで廃墟。
「でも、多分、ここが最良ね」
エレンシアは小さく息を吐き、決意を固める。
氷の薔薇を取りだし、その花へとかぶりついた。
口に入った途端、凍てつく冷気が拡がる。シャリッと薄い氷片を噛んだよう――でも、溶けない。極薄のガラスの破片だ。口内に走る激痛。
それでもエレンシアは必死で噛み砕く。シャリシャリと砕けた薄片が、粘膜に突き刺さり続けた。
血の味。
恐怖心を押し殺し、細かい棘の痛みを無視して飲みこむ。激痛は喉から胸の奥、さらに全身へと拡がった。
朦朧と、だが花弁も茎も葉も齧り、噛み砕き飲みこむ。
身体が小さくなっていることに、しばらく気づかなかった。
血の味と激痛に翻弄されつつ、記憶が残っていることに辛うじてホッとする。
『良く食べられたね。頑張ってて、凄いよ』
声の方向へと顔を向けた。切れた唇から血が伝い落ち、涙でぐしゃぐしゃになった視界の先に、声の主がいる。
男性らしいが人間だとは思えない。地面からわずかに浮かぶ透けるような姿。白銀のローブ、淡い銀色の長い髪、水色の眼。有り得ない神秘の美。気配は冷たいが、表情はとてもやさしい。
(……誰?)
問いかけようとしたが、声が出ない。
その瞬間、さらに強い痛みが全身を駆け抜け、視界の端が白く滲んでいった。





