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3-06 黒妖精のCANCION(カンシオン)

1980年代初め。軍事クーデターで実権を握った独裁者ピンソラスが支配する南米の小国、リナレス。

アメリカ留学から帰国した精神科医・メンデスは、秘密警察によって拘束され、アンデスに近い山奥の精神病院への即時赴任を強要される。

到着した修道会病院で彼が私室としてあてがわれたのは、前日に死去した抵抗詩人、ミリアド・マルケスの部屋だった。そして部屋の壁には、マルケスによって書き記された「存在しない言語」の文字と、奇妙な人物図像が。

奇怪なことには院内に起居する他の収容者たちの中にも、マルケスと同様に壁に「文字」を書きだしたものがいるという。

軍部が病院を廃止する決定を下し、存続が脅かされる中、メンデスは看護師ヴェロニカと共にこの伝播する奇妙な「言語新作」と「妖精妄想」の解明に挑むのだが……


※ 本文の一部の表記はあえて作中の時代に合わせたものになっています。ご了承ください。


 首都サンタ・リナレスから離れシェラ・トリニダドへ向かう山道は、未舗装のままだった。

 そこら中に握りこぶしサイズの石塊が転がる、泥むき出しの田舎道だ。そこをバスとは名ばかり、荷台に廃品のソファーを括りつけただけの改造トラックが、わずかな乗客と手荷物を乗せて一日に三往復しているのだった。


 そんなひどい乗り物で現地へ向かう途中、驚いたことに一輌の()()とすれ違った。こんな僻地にまで、とメンデスは内心眉をひそめつつ、遠ざかるその物騒な鉄の塊を見送った。

 よくよく見ると履帯がひどく緩んでいたし、車体も地面にへばりつくように低くなっていた。懸架装置(サスペンション)がいかれて放棄されたものかもしれないと思い至って、ようやくいくらか気持ちが慰められた。


「あの戦車が気になったかい? 珍しくもないだろうに」


 向かい側のソファーに陣取った中年の農婦が、こちらを覗き込んでくる。どうやら傍目にも分かるほど凝視していたようだ。ミゲルは努めて愛想よく、農婦に応えた。


「そうですねえ。あの手はもう、アメリカじゃ博物館くらいでしか見かけません」


「へえ。この辺じゃたまに、大砲を取り外したやつが製材所なんかに出入りしてるよ。山道では便利らしくてねえ」


「ああ……なるほど、そりゃあ」


 メンデスも詳しいわけではないが、あれは確か『ウォーカー・ブルドッグ』とかいう軽戦車だ。彼の留学先だったアメリカではとっくに一線を退いている旧式のものだが、近年ではこの国を始めとした南米諸国に輸出されているらしい。

 七年前の政変では、ピンソラス将軍率いるクーデター軍が市民相手に使った。当時の記録映画にはばっちりその映像が残っている。


「……あんた、アメリカにいたのかい?」


 農婦は急に、真顔になってメンデスを凝視した。


「ええ、しばらく留学してまして」


「呆れたね。そんな恵まれたとこのお坊ちゃんが、こんな山あいに何の御用だってのさ?」


 批難がましい視線に、メンデスはたじろいだ。


「医者なんです。この先の、シェラ・トリニダド修道会病院へ、赴任するように命じられましてね」


「え! あのクソッタレな精神病院にかい!?」


 農婦はさらに顔をしかめ、なにか悍ましいものを見る目を向けてきた。それきり会話は途絶え、メンデスはそのあと二時間ほどの行程を、気づまりなままで過ごした。



 

 夕方近くになって、バスはようやく目的地の最寄の村に到着した。メンデスは荷担ぎ(ポーター)を一人雇い、さらに三十分をかけて病院まで歩いた。

 病院の敷地に入る石門からは、黒い布をかけた木棺を先頭に、小さな葬列がちょうど出ていくところだった。それを横目で見ながら正面の玄関へ歩いていき、手近に居た看護婦に案内を請うた。


「本日から着任の、ミゲル・ソト・メンデスです。サンタ・リナレスから来ました……院長に取り次ぎを願います」


 黒い大きな目をした看護婦は、「え、今日だったかしら」と不安になるようなことをつぶやきながら、ちらりと本館の方を窺った。


「メンデス先生ですね? 承ってますが……院長は今、お会いできる状態ではないと思います。いま、そこを葬列が出てったでしょ?」


「ああ、うん」


「あの葬儀の段取りで、ほとんど気力を使い果たしたみたいで。お会いになるなら明日がいいでしょうね」


 メンデスはなるほどと頷いた。ここの院長というのは医者ではなく、純然たる聖職者で既にかなりの高齢と聞いている。


「分かりました。取りあえず荷物を運び入れたいので、部屋だけでもお願いできませんか、ええと――」


 メンデスはちょっと言葉に詰まった。目の前の看護婦はまだ名前も聞いていないし、既婚未婚の別もはっきりしない。呼びかけ方に迷って口ごもった彼に、彼女はやや事務的に名のった。


「ヴェロニカ・アンヘレス・ヒメネス――あ、一応未婚です」


「どうも、セニョリータ・ヒメネス。よろしく頼みます……ああ、きみ。どうもありがとう。ここまででいいよ」


 村からついて来てくれた荷担ぎに、メンデスは千ペソ紙幣を何枚か束ねて握らせた。荷物をファサードの前に下ろすと、荷担ぎはひょこひょこした足取りで坂道を下っていった。 


「さて……そうは言っても、空いてる部屋でまともなのっていうと」


 ヴェロニカは少し困ったように、何もない空中を見上げて肩をすくめた。


「メンデス先生。今お使いいただけそうな部屋は、()()()()()()()()なんですよ。ちょっと居心地が悪いでしょうけど、しばらくこらえて頂けます?」


 その言葉の意味するところにはすぐに思い至った。どうやら自分にあてがわれるのはさっき出て行った葬列の、棺の主が使っていた部屋らしい。

 妙だな、と首をかしげて、ミゲルはヴェロニカの背後に連なる石造りの回廊を視線でたどった。

  

 病院の前身は十八世紀ごろの、カトリックの修道院だ。ペンキの塗られた看板の下に重厚なファサードがその面影を残している。これだけの威容を構えながら、まともな部屋がないとは。


 ミゲルの無言を、ヴェロニカは不服ととったらしかった。やや声を低めて、早口で弁解をまくしたて始める。


「分かってますよ。でもここは収容人数が多すぎるんです。最近はちょっとおとなしめになりましたけど、二年くらい前まではそりゃもうひっきりなしに連れてきてたんです。本物の精神病患者だけじゃなく、薬物中毒に同性愛者、政治犯に思想犯。政府に都合の悪い、面倒な人間を片っ端からこんな山の中の隔離施設にね……! 人手も物資もずうっとギリギリ……だいたいアカにしろゲイにしろ、手間をかけて生か――」


「ア――ハン! そのぐらいにしたまえ、ヒメネス君……きみも看護婦なら、宣誓はしたんだろう?」


 ミゲルは流石にたまりかねて、ヴェロニカをたしなめた。相手が明日からの上司と気づいてかヴェロニカの剣幕は幾分和らいだが、それでも不満そうな様子には変わりがなかった。


「それは、まあ。でも、かれこれもう七年ですからね……正看護婦になったばかりでここにきてすぐ、政変が起きて。それから、ずっと……!」


 ヴェロニカはそんな調子でしばらくぶちぶちと愚痴を垂れ流した。口ぶりからするとどうも、政治的な意見よりも仕事が増えるのがただただ辛いらしい。処遇については後日時間をとって話し合う、と約束すると、彼女はやっと気を取り直したようだった。


「誤解があるようだが、私は別に前の部屋の主が死んだ程度の事は気にしない――原因が呼吸器感染の悪疫ででもなければね」


 漆喰で白く塗り固められた、修道院時代からの回廊を進んでいく。途中には僧房だったらしい個室の扉が並んでいるが、その間隔は明らかに狭く、まともな居室とは思えなかった。案内されたのは奥まったところにある扉の前で、そこだけはここまでの扉二枚分に近い幅があった。


「ここが?」


「ええ。死因は転倒による硬膜下出血ですのでご安心ください」


 そう言ってヴェロニカが扉を開ける。中は思ったより明るく、白熱電球の照明が灯っていた。だが、室内に視線を走らせた瞬間、メンデスは背筋にざわつくものを感じた。


 白い漆喰壁のうち、東側の一面が、びっしりと何か黒い模様で覆われている。一瞬ある種の甲虫の群を思い浮かべたが、動き出すような様子はなく、ごく平面的なものらしい。そして少し離れた壁面には、人に近い形をした何かの図像が浮かんでいた。


「何だ、これは……」


「ああ。この部屋にいたマルケスさんが毎日書きつけてたものですよ。消そうと思ったんですけど、院長が『残しておけ』って」


「ふむ……?」


 メンデスは興味に駆られて、手荷物も置かずに壁に顔を近づけた。どうやら何か油性の媒材(メディウム)に溶いた(すす)か何かだ。ひとつひとつの模様にはなにか明確な意匠の統一性があり、狭い範囲の中でも繰り返し同じパターンのものが見受けられる。

 観察しているうちに、メンデスは確信を抱くに至った――なるほど、どうやらこれは、『文字』だ。


「……言語新作(ネオロジズム)、と呼ばれる症状がある。知っているかね?」


「いえ」


精神分裂病(スキゾフレニア)の症状として時折現れる。本人にしか理解できない音声や意味を持つ言語を発話したり、ある言葉を別の概念を表すために用いたり、といったものだが……これは研究する価値がある資料かも知れないな。君、これを描いた患者のカルテはまだあるかね?」


 やや興奮してまくしたてるメンデスに、ヴェロニカは怪訝そうに答えた。


「え? あの人は患者ではないですよ……思想犯です。詩人だって聞きました――ああ、でも案外、本当はおかしかったのかしら」


「詩人? ……名前は分かるかな」


 なるほど。芸術家ならそういう紙一重こっち側の境地で、何かを自分の中からくみ上げるという事もあり得るか――納得しかけたメンデスの耳朶を、ヴェロニカの言葉が打った。


「マルケスさんです。ミリアド・マルケス」


「何だって」


 メンデスは思わず声を上げた。それはクーデターのさなか軍によって虐殺されたと言われている、リナレス在住のシンガーソング・ライターの名だ。


 ――ミリアド・マルケスが昨日まで存命? どうしてそんなことが。


 混乱して頭を振るメンデスに、ヴェロニカは追い討ちのようにまた奇妙な話を始めた。


「病気なんだったら、先生なら治せます? 最近、他の病室の人まで同じような落書きを始めるようになってですね……」

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