3-21 バグった脳で恋をする
私の魂の欠けらは、静寂な中学の図書室にいる彼が持っているはずだった。
それなのに、あの日を境に世界は反転した。
脳を揺らす衝撃と共に目覚めたのは、騒音と汗、そして中身のない会話への暴力的な渇望。
目の前の先輩は美しい。会話は空っぽで、最高に心地いい。
理性がエラーだと叫び続けているのに、私は今日も彼を見つめる。
栞を挟んだあのページへ、いつか帰るために。
私には、恋愛というものが良く分からなかった。
物語の中の恋愛は理解できる。
ページを捲れば、そこには美しい言葉で綴られた心情があり、運命的な展開がある。私はそれに涙し、胸を焦がすことだってできる。
だけど、顔を上げた先に広がっている「これ」は、一体なんなのだろう。
「ヤバっ! 桐崎センパーイかっこよすぎない⁉」
隣で騒ぎ立てる黄色い歓声。舞い上がる砂埃。西日の暑さ。
放課後のグラウンドは、私が最も愛する「静寂」とは対極の場所だった。
「ねえ見て! 今のドリブル見た⁉ 神じゃない⁉」
隣で友人たちが、興奮気味に私の肩をバシバシと叩く。私は読みかけの文庫本に栞を挟み、仕方なく視線を上げた。
彼女たちの視線の先には、サッカー部のエース・桐崎先輩がいるらしい。
遠目に見ても整った顔立ちと、無駄のない動き。汗を散らして走る姿は、確かに絵になるのだろう。
けれど、私には分からなかった。
ただ格好いいだけの偶像に、夢中になれる熱量が。この熱気も、騒音も、私にはただのノイズでしかない。
「ごめん、私そろそろ図書室行くね」
「えー、もう行くの? 先輩こっち来るかもしれないのに」
私は友人の制止を振り切り、逃げるようにグラウンドに背を向けた。
早く、あの場所へ。自然とその足取りは早くなる。
図書館に着いた私は、先ほどとは違う空気に胸を撫でおろした。紙の匂い、埃が光に舞う様子、ページをめくる音だけの空間。この全てが、私の存在すら肯定してくれる気がした。
私は空いた席へ座り、先ほどの小説の続きを読み始める。
読みかけのその小説は、ものの15分ほどで読み終え続きの4巻を探しに本棚へ向かう。
だが、棚のそこだけがぽっかりと空いていた。諦めて図書室を後にする。その時だった。
「あ、あの……すみません」
図書室から出て歩くと、後ろから呼び止める声が聞こえた。
声の方を振り返ると、そこには一人の男子が立っていた。
顔は知っている。確か隣のクラスだったはずだ。でも、名前は知らない。
そんな彼が、なんで私を呼び止めたのだろう?
私の不審者を見るような目つきに怯えているのか、彼は声を震わせた。
「あ、あのさ。……僕、さっきの本の4巻持ってるんだけど……」
彼は震える手で文庫本を差し出してきた。
その接触がきっかけで廊下での立ち話は、いつしか熱を帯びた感想会へと変わっていた。彼は私の言葉を拾い、私は彼の感性に頷く。
「実は、2巻の主人公がヒロインへの手紙を破るシーン。泣いちゃったんだよね。あの行動の一つに、どれだけの想いがあったんだろうって」
彼が零す言葉に息を呑む。そのシーンは、私が唯一栞を挟んで何度も読み返した場所だった。
それだけで、傷を共有する共犯者にでもなったような気分だった。
私が誰にも言えずに抱えていた感想と同じ色をしていた。そして、私がうまく言葉に出来なかった想いも、形として浮かび上がらせてくれる。
まるで私の魂の欠けたピースを彼が持っているような、そんな感覚すら覚えた。
誰とも共有できなかった「物語」が通じ合う。それは、私が知る限り最も心地よい時間だった。
「また感想聞かせてね」
笑顔で振り返る彼と別れ、私は再び歩き出す。
足取りは嘘みたいに軽く、口元が勝手に緩んでしまう。
これが「満たされる」ということなのだと初めて知った。
その余韻に浸ったまま、グラウンドの脇を通る。
友人たちの黄色い歓声も、今は不思議と不快ではなかった。
世界が優しく見えた――その瞬間だった。
激しい衝撃と共に私の目の前が真っ暗になる。
痛みよりも先に、脳内で何かがはじけ飛ぶ音がした。
さっきまで胸を満たしていた、図書室の彼への温かな昂揚感。その行き場を見失った感情の奔流が、回路を焼き切りながら暴走する。
積み上げていた静寂が、理性が、粉々に砕け散っていく。
ぐるんと――世界が反転した。
気が付くと私は、グラウンドの乾いた砂の上に横たわっていた。近くに転がるサッカーボール。ああ、これが後頭部に当たり、私は地面に倒れたのだと理解した。
そして視界を見上げると、西日を背負った圧倒的な「光」が私の視界を覆いつくす。
「ごめん! 大丈夫⁉」
私の元に駆けつけて声を掛けたのは桐崎先輩だった。
「本当にごめんね! いやー、今のカーブちょっと曲がり過ぎちゃったかなあ?」
そう言いながら桐崎先輩は頭を掻く。私もボーっとしながら歩いていたから不注意だった。事故のようなもので、桐崎先輩は悪くない。
「……大丈夫です」
呟くように言って、立ち上がろうとするも足に力が入らない。倒れたときに捻ったのだろうか。右足首に鈍い痛みがはしった。
「大丈夫? 立てる?」
そう言って桐崎先輩は私に手を差し伸べる。私はそれを無視して再び立ち上がろうとするが、やっぱり無理だった。
しかし、私の身体がふわりと浮き上がった。
「んじゃあ、ちょっくら保健室に行くね」
「え? ちょっと? 何して……?」
桐崎先輩は私を抱えて走り出した。
「歩けます! 下ろしてください!」
「ケガした女の子放っておくなんて、俺の名折れだから放置は出来ないな」
私はあまりの恥ずかしさに顔を手で覆い隠す。誰か分からない女子の罵声と、先輩の汗の匂いだけが頭の中に残った。
私のケガは大したことなかった。保健室で湿布を貼ってもらったらだんだん痛みは引いた。
気付けば先輩の姿はなく、私のカバンもない。
保健室を出ると、制服姿に着替えた桐崎先輩が走ってきた。
「お? もう歩いて平気なの?」
切らした息を整えつつ、爽やかに微笑みながら私の容体を気に掛ける。その手には、私のカバンがあった。
「大丈夫です。それと……カバン、ありがとうございます」
「いやあ、そこはエースの責務ってやつ?」
私はカバンを受け取り、少しふらつきながら歩き出す。痛みは楽になったがまだぎこちない。
「キミ一年生だよね? 名前は?」
「芹澤です」
「芹澤さん。今日は本当にごめんね」
「いえ、本当に大丈夫ですからお気になさらず」
私の隣を歩く先輩の顔を横目で見る。確かに本当に綺麗な顔立ちだ。きっとこういう人が将来芸能人とかになるんだと思った。
「心配だから今日は家まで送っていくよ」
「……そこまでしてもらわなくても大丈夫です」
「あー、ダメだよ。こんな可愛い子を放っておけない」
柔らかく笑ってそう言いながら、桐崎先輩は私の頭に大きな手をポンっと置いた。
その瞬間――私の底から何か熱いものがぶわっと沸き上がった。
頭に感じる温もりは、汗ばんでいてやけに重かった。
本来なら不快に感じるはずのその熱量が、まるで劇薬のように私の思考回路に流れ込んでくる。
図書室で感じていた静かな安らぎなど、一瞬で蒸発してしまうほどの暴力的な体温だった。
「じゃあ……お願いします」
私の口は、自分の意思とは無関係に肯定の言葉を吐き出した。
それからの私はおかしかった。きっとこれは頭にボールをぶつけたせいだ。
先輩との帰り道。終始部活の自慢話や愚痴など、私には全く興味のない内容だった。
「あーあ、マジで周りのレベルが低すぎて疲れるんだよね。ウサギの群れにライオンが居るって感じ? それでも合わせられるのが俺のうまいところでもあるんだけど」
「こうやって女の子送るのも、俺の余裕がなせる業って感じかな」
軽蔑したくなるような浅薄な言葉。それなのに、何故か脳髄を直接撫でられているように心地よい。内容なんてどうでも良かった。鼓膜が、桐崎先輩の声を貪り食っている。
中身のない会話。一方的な言葉の羅列。
あの時、図書室の彼と交わした「魂が触れ合うような会話」とは似ても似つかない。
なのに、どうしてこんなに満たされるのだろう。
それから数日経った。
以前借りた本の返却日が迫ってきていたので、私は図書室へ向かった。
すると、この前この本を渡してくれた男子と廊下ですれ違った。
「あ……。その本、読み終わったの?」
「この本? ああ、結局読んでないや」
「そ、そうなんだ……」
「ごめんね、急いでいるから」
彼の引き攣る表情を視界の端に追いやり、私は足を止めずに通り過ぎた。
そういえば、結局彼とは名前を交わさなかった。でも今は、それでよかったと思える。
そんなことよりも、今は急がなきゃ。
放課後のグラウンド。西日の差すあの場所へ。
あの騒音と熱気の中で、桐崎先輩が汗を流している。その姿を一秒でも網膜に焼き付けるために。
トイレの鏡で髪型を整える。そして映る自分の姿ににっこりと笑いかける。
そんな私の瞳孔は醜く開ききり、赤く血走っていた。





