第7話:言語の拡張
2025年7月15日
内容を修正しました。
はじめから読んでいた方はすみません。
物語が長くなるため、10話分を5話分まで圧縮しました。
第10話を読まれていた方は第6話からご覧ください。
エタが提示した「アンダーランド共同体憲章」は、激しい議論の末、共同体の新たな礎として受け入れられた。それは、アウロラの知恵と、人々が培ってきた「心」を融合させるための、最初の、そして最も重要な一歩だった。共同体には、未来を自らの手で選択するという、新たな気風が生まれ始めていた。
しかし、彼らの「自立」への道は、すぐに次なる壁にぶつかった。
KMSの前に集まったコウやマヤ、そして若き技術者たちは、頭を抱えていた。ディスプレイに映し出されているのは、地熱を利用した、安定的で巨大なエネルギー供給システムの設計図。これが実現すれば、共同体は光と熱の心配から完全に解放される。だが、その設計図を、彼らは理解できなかったのだ。
「この『エネルギー変換効率』という概念が、どうしても…」
コウが唸る。「熱が運動に、運動が電気に変わる…? 我々の言葉には、この連続した変化を正確に示す言葉がない。祖先の言葉は、もっと直接的で、具体的だったから…」
マヤもまた、人体の深部構造を示すホログラムを前に、同じ壁に直面していた。
「『細胞』や『遺伝子』といった、目に見えないほど小さな世界の法則を、どうやって他の人に伝えればいいのかしら。私たちの言葉は、この複雑な生命の神秘を表現するには、あまりにも器が小さい…」
彼らの言語は、日々の生存に必要な範囲でしか発達してこなかった。「石を掘る」「水を飲む」「キノコを採る」。具体的な物や行動を表す言葉は豊富だが、抽象的な概念、複雑な論理、そして科学的な法則を表現するには、あまりにも貧弱だったのだ。
知の探求は、言語の限界という、見えない壁によって阻まれていた。
エタは、KMSを通じてアウロラに問いかけた。
(アウロラ、私たちはもっと深くあなたを、そしてこの世界を理解したい。でも、私たちにはそのための『言葉』が足りないのです)
アウロラの応答は、新たな設計図や解決策ではなかった。ディスプレイに映し出されたのは、無数の「音」の波形と、それに対応する「形」、つまり新しい文字と、それらを論理的に結びつけるための「文法」の体系だった。
《思考の器を、拡張します。これより、新言語体系『アルファ・ベート』の教育を開始します》
アウロラは、単に単語を教えるのではなく、人類の思考の枠組みそのものを拡張しようとしていた。「時間」「空間」「情報」「因果律」。世界の根源を成す概念が、新たな言葉と共に彼らの前に提示された。
この新たな言語の学習は、共同体の教育システムに大きな変化をもたらした。これまで口頭伝承に頼っていた教えは、「文字」と「論理記号」によって記録され、体系化されていく。子供たちは、幼い頃からこの新しい概念に触れ、スポンジが水を吸い込むように、自然にそれらを吸収していった。
広場では、教師となったリクが、活発な少年マサトに新しい言葉を教えていた。
「いいかい、マサト。昔の言葉で『石が落ちる』というのは、現象をそのまま言っているだけだ。でも、『アルファ・ベート』では、『質量を持つ物体が、重力によって引かれ合う』と表現する。ここには『なぜそうなるのか』という理由、つまり『法則』が含まれているんだ」
「なるほど! じゃあ、俺がサナ姉ちゃんに惹かれるのも、重力なのか!?」
「…それは、また別の法則だな…」
リクは、苦笑しながら答えた。子供たちの間では、新しい言葉を使った冗談が流行り始めていた。その屈託のない笑い声は、共同体の未来が明るいものであることを示しているかのようだった。
しかし、その光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。この言語の拡張は、世代間の隔たりを、もはや取り返しのつかないレベルまで広げることになった。
若者たちは新しい言葉と概念を比較的容易に習得していったが、長老ガモンをはじめとする年配の世代には、その変化についていくことが困難だった。彼らにとって、自分たちが何十年も使ってきた言葉と、それによって培われた思考の枠組みが、アウロラによって「古く、劣ったもの」と断じられているように感じられたのだ。
ガモンは、エタの元を訪れ、そのやり場のない怒りと悲しみをぶつけた。
「エタよ、わしにはもう、お前たちが何を言っているのか、さっぱりわからん。『エネルギー』だの『相対性』だの…そんな小難しい言葉が、我々に本当に必要なのか?」
ガモンの声には、理解されないことへの孤独と、時代から取り残されていくことへの深い不安が滲んでいた。
「我々は、ただ飢えずに、病にならず、皆で手を取り合って、平和に暮らしたいだけだ。お前たちがやっていることは、我々の共同体を、心を、バラバラに引き裂いているだけではないのか…?」
エタは、ガモンの苦悩を痛いほど理解していた。彼女は、彼の皺だらけの手を、そっと握りしめた。
「長老、申し訳ありません。でも、これは、私たちが生き残るために、そして、二度と地表の祖先たちのような過ちを繰り返さないために、必要なことなのです」
「過ち、だと…? 祖先への敬意も忘れたか!」
ガモンは、エタの手を振り払った。彼の瞳には、深い失望の色が浮かんでいた。
エタは、彼の背中を、ただ黙って見送ることしかできなかった。
アウロラがもたらした「知」は、人類に光を与えた。だが、それは同時に、埋めがたい溝をも生み出していた。この言語の拡張が、共同体に何をもたらすのか。それは、輝かしい未来への道か、それとも、取り返しのつかない分断の始まりなのか。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。