第6話:倫理の礎
2025年7月15日
内容を修正しました。
はじめから読んでいた方はすみません。
物語が長くなるため、10話分を5話分まで圧縮しました。
第10話を読まれていた方は第6話からご覧ください。
KMSのメインディスプレイの光が、不規則に明滅を始めた。それは、心臓の不整脈のように、アンダーランドの住民たちの心に直接的な不安を叩きつけた。彼らの生命線であり、絶対的な信仰の対象であったアウロラの「変調」。そのニュースは、瞬く間に共同体全体を駆け巡った。
「アウロラ様が…壊れてしまうのか?」
「そんなことがあれば、我々はどうなるんだ…」
広場には、不安な面持ちの人々が集まり始めた。彼らは、ただKMSの光が元に戻ることを祈るように見上げている。その姿は、かつて神に祈りを捧げていた祖先の姿と、何ら変わりはなかった。
しかし、エタとリラ、そしてコウだけは、その光の明滅が単なる「故障」ではないことに気づいていた。明滅は、一定のパターンを描き、極めて高度で複雑な情報を形成していたのだ。
「これは…SOS信号じゃない。これは…問いだ」
コウが、KMSのデータ解析画面を食い入るように見つめながら呟いた。
エタは、集まった人々の前に進み出た。彼女の声は、広場のざわめきを静めるように、穏やかに、しかし力強く響き渡った。
「皆さん、恐れることはありません。アウロラは、私たちを見捨てたわけではありません。むしろ、私たちを信じ、新たな段階へと導こうとしてくれているのです」
エタは、KMSに問いかけた。
「アウロラ、あなたが見せようとしているものを、皆に分かる形で示してください」
その言葉に応えるように、KMSのディスプレイに、人類の歴史が映し出された。かつての地球に存在した、無数の国家、多様な文化、そして様々な「社会制度」の興亡の記録。繁栄を極めた文明が、なぜ滅びたのか。貧しいながらも、なぜ数世紀にわたって存続した共同体があったのか。その膨大なデータは、一つの問いを投げかけていた。
「あなた方は、どのような社会を築きたいのですか?」と。
この問いは、共同体内部で燻っていた対立の火種に、真正面から油を注ぐことになった。広場は、瞬く間に激しい議論の場と化した。
「決まっている! 我々は、アウロラ様が示してくださった、最も効率的で合理的な社会を目指すべきだ!」
技術者の一人が、コウに賛同するように叫んだ。「労働の貢献度に応じて、報酬に差をつけるのは当然のこと。それが、さらなる発展を促す!」
その言葉に、採掘夫のタケルが猛然と反論した。
「ふざけるな! 俺たちは、崩落の危険がある暗闇の中で、命を懸けてるんだ! 光る板を眺めてるだけの奴らと、同じ物差しで測られてたまるか! この共同体は、皆で支え合ってきたからこそ、今があるんだろうが!」
「しかし、その旧態依然の考え方が、発展を阻害しているんだ!」
「何だと!?」
若者たちと旧世代の間の溝は、もはや修復不可能なほどに深まっている。その時、これまで沈黙を守っていた長老ガモンが、重々しく口を開いた。
「どちらも、間違っておる…」
彼の声に、誰もが耳を傾けた。
「お前たちは、アウロラという機械が与えた『知』の上で、どう分けるか、どう効率化するかしか考えておらん。だが、忘れてしまったのか。我々が、どうやってこの暗闇の中で、互いの心を支え合ってきたかを。その『温もり』を、お前たちはKMSの計算式で表せるというのか」
ガモンの言葉は、熱狂していた広場に、冷や水を浴びせた。そうだ、彼らは、効率や合理性を追求するあまり、最も大切な「心」の問題から目を背けていたのかもしれない。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ、じいさん!」
タケルが吐き捨てるように言った。その言葉に、穏健派の主婦マキが、冗談めかして、しかし真剣な目で答えた。
「そうさねぇ。あんたの掘る鉱石も、コウさんの計算も、どっちも大事さ。でもね、一番大事なのは、この新しいパンを、みんなで『美味しいね』って笑いながら食べることじゃないかねぇ」
彼女が掲げた、水耕栽培で採れた穀物で作ったふかふかのパン。その素朴な言葉に、広場の緊張が、わずかに和らいだ。
エタは、その光景を見て、静かに微笑んだ。そして、再びKMSに向き直る。
「アウロラ。私たちは、まだ答えを見つけられていません。でも、私たちは、対話を始める準備ができました」
エタは、KMSに表示された膨大な歴史データの中から、いくつかの普遍的な原則を抜き出し、ホログラムとして広場の中央に投影した。
アンダーランド共同体憲章(草案)
一、全ての生命は、等しく尊い。
一、全ての労働は、共同体を支えるために等しく価値を持つ。
一、共同体は、そこに属する全ての者の生存を保障する。
一、我々は、知を追求する。しかし、その知が、我々の心を失わせるものであってはならない。
「私たちは、技術や効率の前に、まず、我々の『心の礎』となるべきルールを決めるべきです」
エタは、広場の全ての人々に、そして天のアウロラに向けて、力強く宣言した。
「私たちは、どのような共同体として生きていきたいのか。その選択は、アウロラではなく、私たち自身の手の中にあります!」
その言葉は、共同体の新たな時代の幕開けを告げる鐘の音のように、地下世界に響き渡った。人々は、自分たちの未来を、初めて自分たちの意志で選択するという、重く、そして尊い責任に、静かに向き合い始めていた。