第4話:知の芽生え
2025年7月14日
内容を修正しました。
はじめから読んでいた方はすみません。
水耕栽培の成功は、アンダーランドから「飢え」という言葉を過去のものにした。人々は満たされた胃袋と、病の心配がない健康な体を手に入れ、共同体にはかつてないほどの活気と、そして「余裕」が生まれていた。子供たちは未来を語り、大人たちは日々の仕事の先に、新たな楽しみを見つけ始めていた。
しかし、エタは知っていた。アウロラがもたらそうとしているのは、単なる生存の保証ではないことを。KMSのディスプレイが示す光のパターンは、日を追うごとに複雑さと深みを増し、もはや食料生産や道具の作り方といった、目先の技術だけを指し示してはいなかった。
それは、物質の構成、力の法則、そして生命のメカニズムといった、この世界を根本から理解するための「知の体系」そのものだった。
アウロラは、人類に「なぜ?」と問いかける力を与えようとしていたのだ。
若き技術者コウは、その「知」に最も深く魅了された一人だった。ある日、アウロラはKMSを通じて、これまで共同体では使われていなかった「数」と「形」――すなわち数学と幾何学の概念を示した。それは、物の量を正確に測り、空間を効率的に利用し、世界のあらゆる事象を記述するための、普遍的な言語だった。
「エタさん! これを見てください! この数式を使えば、もっと効率的に資材を管理できる! 栽培棚の数を正確に計算し、必要な資材の量を寸分違わず割り出すことも…!」
コウの脳裏には、共同体の限られた資源を最大限に活用する、新たな可能性が広がっていた。彼は寝食を忘れ、アウロラの示す「数」の法則の学習に没頭した。これまで経験と勘に頼っていた共同体のあらゆる作業が、彼の導入した「計算」によって、驚くほど正確で公平なものへと変わっていく。
医術師マヤもまた、アウロラの示す「形」の知識に深く感銘を受けていた。KMSは、植物の細胞構造や、人体の内部構造を、精緻なホログラフィックイメージで表示した。
「エタ、これを見て! 病の原因となるこの小さな生き物が、こんなにも複雑な形をしているなんて…! そして、この薬草が持つ成分が、その形を正確に破壊することで、病を癒す…」
マヤの声は、興奮と畏敬の念に満ちていた。これまで経験と勘に頼ってきた治療法に、絶対的な科学的裏付けが与えられたのだ。彼女は、アウロラの示す人体の構造に関する知識を学び、より効果的な治療法、さらには病を未然に防ぐ「予防医学」という新たな扉を開こうとしていた。
この「知の芽生え」は、共同体の若者たちを熱狂させた。彼らはKMSの前に集い、新たな知識を競うように吸収した。広場では、若者たちが自作の道具を持ち寄り、その性能を試す光景が日常となった。
「おい、俺が作ったこの滑車を見てくれ! 力の伝達効率を計算通りに設計したんだ。今までの半分の力で、あの岩が持ち上がるぞ!」
「すごいな! じゃあ、俺が作ったこの天秤で、どっちのキノコが重いか正確に比べてみようぜ!」
彼らの間では、ふざけ半分で冗談が飛び交うこともあった。
「お前のその新しい鍬、テコの原理は合ってるのか? そんなんじゃ、自分の足でも掘った方が早いんじゃないか?」
「うるさいな! これはまだ試作品だ! 次はもっとすごいものを作って、お前を月まで吹っ飛ばしてやるよ!」
「月ってなんだ? 食えるのか?」
無邪気な笑い声が、活気と共に広場に響く。彼らは、アウロラから与えられた知識をただ受け取るだけでなく、それを自分たちの手で応用し、新たな価値を生み出す喜びに目覚め始めていた。
しかし、この知の急速な拡大は、長老ガモンに新たな、そしてより深い懸念を抱かせていた。彼は、共同体の変化を認めつつも、その変化が、祖先から受け継がれてきた大切な何かを消し去っていくように感じていたのだ。
ある日の夕食時、ガモンはエタを呼び出した。共同体の中央、揺れる炎の光の下で、二人は静かに向かい合った。
「エタよ、知は時に、人を傲慢にする。若者たちは、数字と論理を弄び、全てを分かった気になっている。だが、彼らは分かっておらん。我らが生きるこの大地への感謝を、目に見えぬ力への畏敬の念を…」
ガモンの声は、いつになく重かった。彼の瞳は、ただ変化を恐れているのではない。かつて、彼らの祖先が地表で築いた文明が、その「知」によって自らを滅ぼしたという、漠然とした伝承を、彼は誰よりも重く受け止めていたのだ。
「水も、食料も、全てが人の手で計算され、作られるものとなる…。それは、本当に我々にとって望ましいことなのか? 我々は、感謝する心を忘れた、ただの機械になってしまうのではないか?」
ガモンの言葉は、共同体の安定を願う彼の真摯な思いから発せられていた。エタは、彼の懸念を理解しつつも、アウロラの示す未来を信じていた。
「長老、アウロラは私たちに、ただ知識を与えているのではありません」
エタは、ガモンの目を見つめ、静かに答えた。
「アウロラは、私たちに自ら考え、自ら道を切り開く力を与えているのです。感謝を忘れるかどうかは、私たち自身の心の問題。この変化は、人類が過去の過ちを乗り越え、より強く、より賢くなるための、避けられない道なのだと信じています」
エタの言葉には、アウロラへの揺るぎない信頼と、人類の可能性を信じる強い意志が宿っていた。だが、彼女の心にも、ガモンの言葉が小さな棘のように突き刺さっていた。
アウロラの知識は、共同体の伝統を破壊するのではなく、むしろそれを補完し、より豊かな未来を築くための土台となるはずだ。だが、その土台の上に、私たちはどのような「家」を建てるべきなのか。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。