第3話:生命の泉
2025年7月10日
内容を修正しました。
はじめから読んでいた方はすみません。
生命の泉は、人々の喉の渇きと病を癒した。しかし、その清らかな水は、皮肉にも彼らの空腹をより一層、明確なものにしていた。健康を取り戻した体は、当然の権利のように、より多くのエネルギーを求めて叫び始める。アンダーランドの広場では、日に日に食料を求める声が強くなっていた。
「パンはこれだけか! 子供たちが腹を空かせているんだぞ!」
食料の配給を担当するカイは、日に日に痩せていく同胞たちの怒声と、空っぽの貯蔵庫との間で板挟みになり、憔悴しきっていた。
その様子を、エタは唇を噛みしめながら見つめていた。彼女は再び、KMS(知識管理システム)のメインディスプレイの前に立つ。
(アウロラ…聞こえる? 私たちには、食べ物が必要なの。このままでは、せっかく救われた命が、飢えで失われてしまう…!)
エタの必死の呼びかけに、アウロラは応えた。ディスプレイに映し出されたのは、これまで見たこともない、複雑な植物の構造と、何層にも重なった棚、そしてそれを照らす無数の光の筋を示す、壮大な設計図だった。
《提案します。限定環境下における高効率食料生産システム。コードネーム、『水耕栽培』》
その言葉と光のパターンは、若き技術者コウの心を再び激しく揺さぶった。
「土を使わずに、植物を育てるだと…? しかも、人工の光で…? エタさん、これは…これは革命だ! もしこれが実現できれば、我々は飢えから完全に解放される!」
コウは、設計図の写しを手に、目を爛々と輝かせた。しかし、その実現には大きな壁が立ちはだかっていた。設計図が要求する「人工光源」や、植物に与える「栄養を含んだ水」の作り方は、彼らの知識を遥かに超えていたのだ。
「私たちが今持っている技術では、この『人工光源』は作れない。それに、この『栄養液』の精密な調合も…」
コウが頭を抱えると、アウロラは待っていたかのように、新たなデータを開示した。それは、これまで価値がないとされてきた特定の鉱物を加工して特殊な発光体を生成する方法。そして、地下に生息する微生物と鉱物を組み合わせ、植物に最適な栄養液を生成するプロセス。答えは、すべて彼らの足元に眠っていたのだ。
エタとコウは、共同体の若者たちに呼びかけた。最初は誰もが半信半疑だった。
「光る石だと? 太陽でもないのに、そんなもので作物が育つものか」
しかし、エタの揺るぎない信念と、コウの論理的な説明は、少しずつ人々の心を動かし始めた。若き採掘夫のタケルは、コウに示された新しい鉱脈を掘り当て、その鉱石が本当に光を放つ様子を目の当たりにして、計画への参加を決意した。
共同体の一角で、壮大なプロジェクトが始まった。若者たちが鉱石を運び、コウの指示のもとで加工していく。長老ガモンは、その様子を腕を組んで、厳しい表情で見守っていた。
「偽りの光に、偽りの土…人の手で命を創り出すなど、自然の摂理に反する行為だ。いずれ、大きな災いが我々を襲うぞ」
彼の警告は、しかし、希望に燃える若者たちの耳には届かなかった。
数週間後、多層構造の栽培棚が組み上がり、浄化された水を循環させるパイプラインが敷設された。そして、運命の日が訪れる。コウがメインスイッチを入れると、薄暗かった地下空間に、夜明けのように眩しく、そして生命の息吹を感じさせる温かい光が灯った。
「おお…!」
人々は、その光景に息を呑んだ。それは、彼らが生まれて初めて見る、太陽以外の「光」だった。
アウロラの指示通りに調合された栄養液がパイプを流れ、共同体では見たこともない、青々とした植物の種が丁寧に植えられた。
それからさらに数週間。信じられない光景が広がった。人工の光の下で、生命力に満ちた緑の作物が、めきめきと成長していたのだ。葉物野菜や、栄養価の高い根菜が豊かに実り、その清々しい香りは、カビ臭い地下空間の空気を浄化していくようだった。
医術師マヤは、その光景を見て、静かに涙を流した。
「アウロラ様は…本当に私たちに恵みをもたらしてくださる…」
最初の収穫祭の日。共同体の主婦であるフユナは、瑞々しいレタスの葉を手に取り、恐る恐る口に運んだ。
「…美味しい…! なにこれ、シャキシャキしてて、甘い…!」
彼女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。飢えの恐怖からの解放。その喜びは、共同体全体を歓喜の渦に巻き込んだ。子供たちは、人工の光の下で育つ植物の周りを走り回り、その成長を毎日、飽きることなく観察していた。
エタは、その光景を微笑みながら見つめていた。その隣で、コウが満足そうに頷いている。彼らの前には、豊かに実った作物の棚が、未来への道を照らすかのように、どこまでも続いていた。
しかし、エタは気づいていた。広場の隅で、長老ガモンが一人、その光の恵みから目を背け、深く眉をひそめていることに。
彼らは飢えを克服した。だが、その代償として、共同体の心は、光と影、二つの道へと静かに分かれ始めていた。