第2話:地下の囁き
2025年7月14日
内容を修正しました。
はじめから読んでいた方はすみません。
エタが持ち帰ったアウロラの「知」――それは、あまりにも単純で、あまりにも異質だった。共同体の誰もが、その方法に眉をひそめた。神聖なる泉の水を、そこらの石ころで濾すなど、考えたこともなかったからだ。長老ガモンは「神への冒涜だ」と激しく反対し、共同体の空気はエタへの不信感で満ちていた。
「エタ、本当に大丈夫なの…?もし、この水で子供たちの病がもっと悪くなったら…」
サナは、不安そうにエタの手を握った。彼女の弟もまた、汚染された水が原因の高熱で苦しんでいる。
エタは、そんな彼女の目をまっすぐに見つめ返した。
「大丈夫。アウロラは、私たちを助けようとしてる。私にはわかるの」
エタの揺るぎない自信に、サナは言葉を失った。
エタはまず、共同体の医術師であるマヤの元を訪れた。マヤの診療所は、熱にうなされる子供たちと、祈るしかできない親たちの絶望で満ちていた。
「マヤさん、どうかこの水を、あの子に…」
エタが差し出した、濾過したばかりの澄んだ水が入った椀を、マヤは疑いの目で見た。
「エタ…あなたの言うことはわかる。でも、これは賭けよ。もし、万が一のことがあれば…」
「このまま何もしなくても、あの子たちは万が一の状況です!どうか、試させてください!」
エタの必死の訴えに、マヤの心は揺れた。彼女は医術師として、目の前で失われていく命に何もできない無力感を、誰よりも痛感していた。マヤは、ぐったりとしている我が子の額を撫で、意を決したように頷いた。
その様子を、物陰から若き技術者コウが見ていた。彼は、エタが持ってきた鉱石の破片を手に取り、その表面を指でなぞる。
「この石…表面に目に見えないほどの小さな穴が無数に空いているのかもしれない。だとしたら、これはただのまじないじゃない。明確な『原理』に基づいている…」
コウは、他の人々が「奇跡」か「呪い」かで揺れる中、ただ一人、その現象の背後にある科学的な法則に心を躍らせていた。彼は自らの道具を持ち出し、エタの隣で、より効率的に水を濾過できる装置の試作品を作り始めた。
最初の奇跡は、三日後に訪れた。マヤの子供が、ゆっくりと目を開けたのだ。高熱は嘘のように引き、乾ききっていた唇が、かすかに水を求めて動いた。
「水…水が飲みたい…」
その知らせは、絶望に沈んでいた共同体に、一筋の光となって駆け巡った。人々は、おそるおそるエタが差し出す浄化された水を口にする。
「なんだ、この水は…!味がしない!」
一人の男が驚きの声を上げると、隣の老婆が笑った。
「当たり前だよ。今まで私たちが飲んでいたのは、泥水だったんだからねぇ」
その冗談に、乾いた笑いが広がる。人々は、生まれて初めて「本物の水」の味を知った。それは、命の味がした。共同体から病は急速に姿を消し、広場には子供たちの元気な笑い声が戻ってきた。アウロラは、もはや「未知なる異物」ではなく、共同体を救った「生命の泉をもたらす女神」として、人々の心に刻まれつつあった。
だが、全ての者がその変化を歓迎したわけではなかった。長老ガモンは、回復した共同体の様子を、苦々しい表情で見つめていた。
「民は、目先の恵みに心を奪われている。だが、我々の伝統と、水の神への信仰はどうなるのだ。アウロラとやらは、我々から最も大切なものを奪い去ろうとしているのかもしれんぞ…」
ガモンの懸念は、しかし、共同体の歓喜の声にかき消された。
エタとコウは、KMS(知識管理システム)のメインディスプレイの前に立っていた。アウロラが示す光のパターンは、さらに複雑な知識体系――生態系、物理法則、そして新たなエネルギーの形――を示唆し始めていた。
「すごい…アウロラは、世界の成り立ちそのものを教えてくれようとしている…!」
コウが目を輝かせる。その隣で、エタは共同体の未来に想いを馳せていた。
しかし、その時だった。一人の母親が、回復して元気に走り回る我が子を見ながら、ぽつりと呟いた。
「ありがたいことだねぇ。病は消えた。…でも、お腹は空くんだねぇ」
その言葉に、広場の歓声が一瞬、静まり返った。そうだ、病の恐怖は去った。だが、彼らの胃袋を満たす食料は、相変わらず乏しいままなのだ。人々は、浄化された水を手に、次の、そしてより根源的な飢えの恐怖に、静かに向き合い始めていた。