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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
公子三人
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必勝の劇薬

 列亢が利幼の手に落ちたと聞いて、遼南城を攻めている練孟は怒り狂った。

 それと同時に、今の出兵に対する手詰まりをも思い知った。

 もう間もなく冬が来る。こうなれば兵士は敵兵よりも寒さと戦うことになり、ろくに手足を動かすことも出来ないだろう。年が暮れようとしている頃である。僖陽にいる子伯異からの書簡もあり、練孟は撤兵を決断せざるを得なかった。

 一方、列亢のという肥沃の地を得た利幼は、傭兵として抱えた夏羿族とその家族を養っても余りある糧秣を得たことになる。だが子狼は間を置かず、姜子蘭の横にあって利幼に進言した。


「利幼公子におかれましてはどうか、このまま年が明けぬうちに大事を決しなさいませ」


 それは、年内に薊侯から太子と任命されるよう、と言っているのに等しい。

 そのために練孟に使者を送り、薊都甲燕で父たる薊侯の前で互いに議論を尽くして太子の座を争おうと言わせたのである。

 子狼の挑発的な策に劇迴は不服であった。

 しかし利幼の家宰たる辛明は思いのほか乗り気だったのである。

 劇迴と辛明は齢こそ離れているが、共に利幼に英主の片鱗を見出しているだけ。それだけに劇迴には、辛明が余所者たる子狼に賛同するのが気に入らなかった。

 劇迴にしてみれば子狼は姜子蘭という得体の知れぬ若造のために利幼を誑かしている詐欺師に過ぎぬと思っており、しかもそれは見当違いとも言えないのだ。

 しかし辛明は、子狼について思うところはあれど、それでも劇迴に異を唱えた。


「利幼公子の臣たる我らからすれば、劇将軍の言葉は正しいと思います。しかし、薊国の臣民とすれば、このような愚かし擾乱は少しでも早く帰結を見るほうがよろしいのではありますまいか? 一時の汚名悪名も、利幼公子が薊侯となって民のために善政を施されればすぐに立ち切れるでしょう」


 辛明のこの思想は子狼から教えられたものだが、そう言われると劇迴としても返す言葉に詰まった。

 劇迴は元より北辺の守将であり、政治に参入するつもりもなければ好みもしないのだ。ただ望諸の地にあって長城を守り抜ければ本望であり、公子三人の跡目争いそのものを煩わしいとさえ思っているので、辛明の言葉には反論出来なかった。

 しかし、子狼の描いた絵の通りにはならなかった。

 利幼からの書簡を受けた練孟は、薊の南にある(えん)国に援助を求めたのである。薊国の三分の一の国土を条件に、奄国は兵を出した。北地は冬の寒さがあるが、薊国南域であれば冬の寒さはあっても出兵が出来ないということもなく、練孟としては奄の力を借りて列亢を掌中に収めようという腹であった。

 その話を聞いて利幼らは腹を立てた。まだ君主にもなっていない一公子が国土割譲を条件に他国と結んだのだから当然である。

 劇迴も口汚く練孟を罵り、次に子狼のほうを見た。


「なあ子狼どのよ。これも貴殿の想定のうちか?」


 頷きはしたが、子狼は不愉快そうな顔をしている。


「考えてはおりました。ですが、ここまでやるとなると考えねばなりません」

「ほう、では今までは考えていなかったというわけか。貴殿のような智慧者の頭というのは私のように辺境を守るしか能のない男とは異なっておられるようだ」

「いいえ、戦い方を考えるのではありません。勝ち方を考えなければならない、と申したのでございます」


 子狼は迂遠な言い方をした。煙に巻かれているようで劇迴は腹を立てたが、辛明がそれを宥めて子狼に真意を聞く。


「劣勢を覆し、寡兵でも大軍に勝ち、弱卒でも強兵を倒すための手段というものはございます。それも、策を弄することもなく簡単に」

「そんなものがあるものか。もしそのようなものがあるのであれば、この世に将軍や軍師などは不要ではないか」


 劇迴は怒鳴った。しかし、子狼は劇迴に向けて敬意を払うように笑みをこぼした。


「左様ですな。劇将軍がそれを御存じでなく、思いつきもしないということはとても善きことでございます」


 それは挑発のような言葉であった。姜子蘭と盧武成も子狼の言い方がまるで劇迴を貶しているようなので小声で注意を促す。しかし子狼は、いっそう利幼と劇迴に対して言葉を恭しくした。


「利幼公子と我が君に誓って、これは劇将軍への称賛でございます。というのも、私が申すその手段というのは、人の上に立つ者が思い至ってはならず、思い至ったとしても為してはならぬことだからです」


 そう言われて一同は、その言葉を信じることは出来ても意図は読めなかった。しかし劇迴だけが察したのである。


「兵に決死を命じ、逃げぬようその背後に弓兵を並べて突撃を促す。将兵の妻子を人質に取り、敗れた時には殺すと恫喝する。これをすれば、どれだけ彼我の兵数に開きがあっても兵は果敢に立ち向かい、弱卒であっても一人で十人に相当する働きをすることでしょう」


 一同は絶句し、子狼の言葉の意味を理解した。確かにそれは思いつかぬほうがよいものである。


「無論、それは劇薬でございます。一時の勝利のために自らの手足を切り捨てるが如き愚策に他なりません。ですが追い詰められた者には後の破滅など映らぬものです。練孟公子がそういう手段を取りうるかもしれぬとあれば、利幼公子がどのように挑まれるかを再考せねばなりません。公子はいずれ薊侯となられる御方でございますので――」


 子狼は真摯な言葉でそう語った。劇迴もそこに異論を挟むことはしなかった。

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