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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
公子三人
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悌道と利害

 自分を解放し、再び会戦にて決着をつけよう。

 岸叔のその言葉に利幼は赫怒した。その怒りを押し殺しつつ、声を低くして岸叔に問いかける。


「私と兄上の位置は遠うございますので、よく聞こえませんでした。何と仰せになりましたかな?」

「ふん、耳も痺れるほどに恐ろしかったか。ならばもう一度言ってやるとも!! 俺と、会戦にて競えと言ったのだ!!」


 今度は、確かに利幼は岸叔の言葉を聞き届けた。そしてはっきりと怒りを示したのである。


「なんだ、俺が縛られているからといっていい気なものだな。しかしそれは戦となれば負けるから強がっているだけだろう!!」

「黙れ!!」


 初めて利幼が一喝した。その声の凄まじさに、岸叔だけでなく利幼の臣までもが驚いた。これほどの赫怒を剥き出しにする利幼を初めて見たからである。


「惰弱は兄上のほうでしょう。もし兄上が、互いに武器を取って決闘にて優劣を決めようと仰せならあるいは私も諾と言ったかもしれません。ですが、兄上は結局のところ、将兵にのみ血を流させて自分が痛みを負うおつもりはないようだ。戦となれば勇気を振るうのも死ぬのも兵士です。それにすら思い至れぬ御方に、次の薊侯にはなっていただきたくはない!!」

「まだ嘴の青い孺子が君子面をして戯言を抜かすな!! 主のため、君のために死ぬのは将兵のつとめであろうが!!」


 岸叔の言葉は、しかし火に油を注いだようなものである。いよいよ我慢の利かなくなった利幼は、


「この男の首を直ちに刎ねよ!!」


 と叫んだ。それを諌めたのは姜子蘭であった。


「公子のお怒りはもっともなれど、ここは人の上に立つ御方としてその激情をお鎮めください」

「姜どのの言葉は分かる。だが、私は国のために身命を賭してくれる将兵を、それが当然とのたまう男を生かしておきたくはない」

「なれど、公子の御令兄でございます。それに――公子が岸叔どのを殺したとあれば、練孟どのはどう思われるでしょうか?」


 その言葉に、ほう、と小さく感嘆したのは子狼であった。その感嘆は誰の耳にも届かず、姜子蘭は言葉を続ける。


「練孟どのは岸叔どのの喪を発し、岸叔どのが領有していた地と勢力を糾合しましょう。そうなれば公子に勝ち目はなく、残るのは兄を殺したという不名誉のみではありませんか?」


 姜子蘭の言葉は、兄を殺す不悌よりも現実的な損得に基づいていた。姜子蘭の言う通り、岸叔を捕らえたといっても未だ列亢の地を抑えたわけではないのだ。

 ここで短慮を起こして岸叔の地盤が練孟に移ってしまえばここまでの戦いも謀略も、瞬く間に無に帰す。それが分からないほど利幼は暗愚ではない。




 結局、利幼は岸叔を牢に繋いだ。

 その間に子狼は、蔡右欣を説くことにした。今や岸叔の臣で一番高位にあるのは蔡右欣であり、彼を説き伏せれば列亢を得られると考えたからである。

 蔡右欣は、岸叔の助命を条件に列亢を明け渡すことを認めた。こうして利幼は望諸の他に列亢という肥沃の地を収め、練孟に対して優位を取ったのである。

 子狼は先に利幼が岸叔を殺そうとしたときにそれを諫めた姜子蘭に感心していた。姜子蘭は殺生に対する損得を弁えている。といって、姜子蘭にすれば利幼に兄殺しの汚名を負ってほしくないというのが本心であり、損得はその思いを呑み込ませるためのものだったのだろうが、


 ――王子は、利害を交えて他者を説くということを御存じだ。


 ということが分かったことが喜ばしくあった。

 それと反対に、此度の戦果の一番の功労者たる盧武成は苛立ちを隠そうともせず、その策の立案者たる子狼に対して鬱積を吐き出した。


「お前のせいで俺は、馬賊に扮し、刺客の真似事をする羽目になったぞ」


 そう語る盧武成の顔は愠色で塗りたくられている。しかし子狼は少しも心を痛めることなく笑っている。


「ああ、お前がいるおかげで俺は随分と楽をさせてもらったとも。俺は智者などではないかもしれぬが、しかしお前という勇士を扱うことに関しては達人なのかもしれないな」


 悪びれずにそう語る子狼を盧武成が殴らなかったのは、共に姜子蘭の臣であり、私闘を起こして主君に迷惑をかけてはいけないという理性からである。


「まあ、今は少し我慢しろよ武成。我が君には未だ寄る辺なく、一兵の軍、一端の地さえ持たれぬ身なのだ。それでいていずれは虞を救おうと欲すればそれは奇麗ごとだけでは為せぬよ。人は乾けば泥水さえも啜らねばならぬ時とてあろうというものさ」

「……それは、そうかもしれぬがな。しかし俺としては、何やらお前のいいように使われているようで釈然とせぬ」

「仕方がないだろう。今の我が君には、我らがしくじった時のための人質という大事な責務がおありなのだからな」


 これまた、子狼は悪びれずに口にする。盧武成はいよいよ拳を固く握りしめていた。人臣としての自制と、沸き立つ私心が争っているのだ。


「そう怒るな武成。俺は決して、我が君に自らそうあれかしと進言したことはない。我が君は俺とお前とを信じてくださっているのだ。人臣の身にあってそのご期待に沿うよりも重んずることなどあるのか?」


 そう言われると盧武成としては黙り込むしかなかった。しかしその言葉さえも、子狼の口から出ると自分を言いくるめるための詭弁のように思えてしまうのである。そんな盧武成の気性を見透かし、宥めるように子狼は真剣な顔をした。


「これは同輩としてではなく友として言おう。お前からすれば俺は、さぞかし陰湿で姑息で卑劣な男に見えているだろうさ。だが、俺としてはそのすべてをいずれ我が君の大願のためにと思っている。それだけは信じてくれ」


 そう告げられると盧武成は言葉に詰まった。盧武成は、気に入らないことはあっても子狼のことは友として信頼しており、そして――自分と同じく、姜子蘭のために最善を尽くしているということだけは分かるのである。

 だからこそ、はっきりとそう告げられれば盧武成としてはそれ以上何も言い返せなかったのだ。

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