垂涎の計
子狼が岸叔を捕らえた方法は至って単純だった。
岸叔軍が利幼軍よりも飢えと戦っている時、士直が礼物と兵糧の山を携えて岸叔の陣を訪れたのである。
士直は、
「我らは望諸の近くで商いをしている者ですが、望諸の城主が利幼様になられてからは夏羿族の難は増すばかりです。この上は岸叔様のような智勇に富んだ御方に我らを護っていただきたく、些少ではございますが礼物を持参して参りました」
と恭しさをこめて告げた。
岸叔としては手放しで信じることは出来なかった。しかし士直の持参した兵糧は魅力的である。しかも士直は陣頭で高らかに、
「我らは岸叔公子のその精鋭の難を聞き、その腹に収めていただくべく糧食を持参しました。どうかお通しいただきたい」
と叫んだのである。兵らはすぐに陣頭に殺到し、そこで士直の率いる荷車を見た。そこには山のように高く食糧を積み上げた車が犇めいている。
しかも兵糧は兵士たちに見せつけるように剥き出しにされていた。兵糧難のため、一日一食を強いられている兵らにすればどんな財宝よりも輝いて見えたことだろう。
岸叔が諾と言えば空腹と縁を切れる。そう思うと将兵はいきり立ち、誰も彼もが疑わずに岸叔に話を通した。
岸叔がもしこれを断れば、当然ながら食糧は得られなくなる。といって、その時は岸叔が兵からの怨みを買うことになるのだ。
どうすべきか、岸叔は傍にいる蔡右欣に諮問した。
蔡右欣は始めは悩ましい顔をしていた。そして、何かを決めたかと思うとさらにその顔に険しさを浮かべたのである。
「その士直なる商人とその一行を殺し、兵糧を奪いましょう」
蔡右欣としては苦渋の決断のつもりである。利幼が詭計を使うと分かった以上、この場で士直を受け入れるのは危険である。といって、兵糧が尽きれば立ち行かなくなるのであれば、力でもって奪うしかなかった。
しかし岸叔は蔡右欣と違い、口元をいびつに裂いて笑っていた。
「まあ、そうするしかあるまいよな。何、殺してしまえば理由などいくらでもつけられるさ」
その顔を見て蔡右欣は岸叔の腹を見抜いた。
岸叔は最初からそうするつもりで、しかもそれを敢えて蔡右欣に言わせたのである。
自分でも仄暗いことを考えながら、その端緒は臣の口から出たことにしたいのだ。そう悟っても蔡右欣はそれを不満には思わない。これも謀臣の務めと思っているからである。
果たして士直は一人の家人のみを連れて岸叔との目通りを許された。二人ともに兵らに全身を調べられ、丸腰であることは判明している。
岸叔は横に蔡右欣を立たせているのみだが、幔幕の裏には剣を持った兵士が所狭しと並んでいる。合図があればすぐに二人を殺す算段であった。
士直と従者は拝跪して岸叔に話しかける。その口上を述べる前に――士直の従者が動いた。
その男は長駆ながら風のような速さで走ると、一目散に岸叔の襟を掴んで地面に投げつけ、瞬く間にその意識を失わせたのである。
そして幔幕の裏の兵士たちに向けて叫んだ。
「武器を捨て投降せよ。もし我らが戻らぬ時は、外にある兵糧は焼き捨てて逃げることになっておる。忠義を選んで空腹に耐えるか、主命を捨てて腹を満たすか、好きなほうを選ぶがよい!!」
その叫びは青天の霹靂のように響き渡った。
しかも今は、軍の長たる岸叔は意識を失ってしまっている。その横で蔡右欣は目を伏せて思考を巡らせていた。
しかしやがて、膝をつき士直の従者に対して言葉を投げたのである。
「そちらのよきようになされよ。お前たちも、武器を捨てて出てこい」
蔡右欣に言われて兵士たちは剣を投げ捨ててぞろぞろと表に現れた。外にいる岸叔の兵らもすべて投降したのである。
この士直の従者とは、商人に扮した盧武成であることは言うまでもない。
こうして子狼は、ただの一兵も用いることなく岸叔を擒としたのだ。
目が覚め、利幼の前に差し出された岸叔は自分が奸計に嵌められたのを知ると激しく利幼を罵った。しかし轡を噛まされているため、その叫びは蛙の鳴き声のようである。
利幼は近侍に命じて轡を解かせた。すると岸叔の舌鋒は途端に明瞭になり、鋭い悪態が望諸の城の中に響き渡る。
「おのれ、恥知らずの孺子め。薊国の面汚しめ。そんなにも君位が欲しいか!! それくらいは良しとしてやるにしても、兵戈を交えることすら出来ず他人を騙すことばかりの惰弱者とは情けない!!」
囚われてはいるが、岸叔の言葉は利幼にとって耳に痛いものである。今のところ利幼は、二人の兄を詐って陥れた狡辛い弟でしかないのだ。
「兄上のお言葉は耳に痛うございます。私としても、どういう面目あって兄上に会えたものかと不徳な我が身を恥じるばかりでございます」
これは利幼の本音である。利幼はつい先ほどまで、岸叔が囚われて望諸にいることすら知らなかったのだから無理もない。
その弱気を見て取った岸叔は、縛られながらも気勢を増した。
「ならば俺をすぐに放つがいい!! 次は互いに兵を率いて平野の会戦にて雌雄を決そうではないか!!」
岸叔にとっては利幼は未だ気の弱い弟のままである。押し切れると思っていたのだが、利幼はその言葉を聞いた途端、顔を真っ赤に染めて怒りを顕にした。
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