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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
王子漂泊
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姜子蘭、馬術を習う

 馬を得たことで盧武成たちの旅は快適なものになった。始めは馬術を覚えることに乗り気でなかった姜子蘭も、


「生きることが使命である者は、その術を選んではならない」


 と盧武成に言われると積極的に馬術を覚えようとした。そうと決めると姜子蘭は盧武成の教えをよく聞き、三日とたたずに基本的なことは出来るようになっていたのである。

 この時代、馬具と言えば手綱しかなく、馬上で胴体を安定させるための鞍や、足の重みを支えるための鐙などは存在しない。

 さらに盧武成らの乗る馬は戦車を曳くための馬であり、騎乗を想定した訓練もなされていない。進退を命令する合図から自分で仕込む必要があった。

 盧武成はそういったこともすべて教え、姜子蘭に自分でやらせた。そういう調教を含んでの三日であり、まだ走らせることは出来ないが、進めと止まれを分からせてつつがなく旅を出来るようになったのは驚異的な進歩である。


「武成は良き師であるな」


 姜子蘭は年相応の無邪気な笑みを浮かべて言った。

 盧武成からすれば特別なことをしているという自覚はなく、この飲み込みの早さは姜子蘭の素直さからくるものだと思っている。教えを受けることに抵抗がなく、言われたことを言葉の上だけでなく理解しようという懸命さが姜子蘭にはあった。


 ――この素直さは子蘭のよいところである。


 しかし姜子蘭は、やはり自分が王子だという自負があるようで、均に対して尊大に振る舞うことがあった。

 そこで盧武成は姜子蘭に言った。


「立場とは相対する者によって変わるものだ。丞相は朝廷では尊貴であり、多くの者に指図を下す立場であるが、家に帰れば年老いた父母に傅き孝行を尽くす子となる。それと同じで、お前は王子であっても今は私に馬術を習う子弟だ。私がお前と均との扱いを変える理由はないし、お前も同じ師を仰ぐ者として均に対し身分を持ち出すことはならん」


 自らを師と言う以上、盧武成は敢えて厳しい口調で言った。

 しかし子蘭は、その場では渋々ながらに頷いていたが、やはり言動の端々に、自分のほうが偉いのだという驕りが見える。

 均にしても、丁稚としての暮らしが長く、しかも姜子蘭はいかにも身なりや言動からして高貴であるので自然と恭しく接していた。

 なので盧武成は、このことはひとまず諦めることにした。

 姜子蘭の振る舞いも均の態度もその出自や環境からくるものである。

 盧武成な姜子蘭のことを、


 ――王子というのは偽りではあるまい。


 と思い始めていた。

 ならば今日までは虞王宮の中こそが姜子蘭の世界のすべてであったに違いなく、父と兄の他に頭を下げたり恭しくする必要はなかっただろう。ましてそれが氏姓も持たぬ子供を相手に対等になれと言っても無理なのは仕方がない。

 均にしてもそうである。父母を亡くしたところを范旦に雇ってもらったと婉曲に言っていたが、その過程でどんな目にあったかは分からない。仮に何もなかったとしても、親を亡くし范旦しか頼る者がないとなれば、他人に対して対等に接するということも出来なかったであろう。


 ――天地ほどに境遇の違う二人の子供が俺と共に旅をしている。なんとも奇妙なことだ。


 そんなことを思いながら、盧武成、姜子蘭、均の三人はいよいよ智氏の領境までやってきた。




 范旦の持っていた木片を見せれば関所は通れるという話だった。しかし盧武成は用心を重ねた。

 智氏の氏長、智嚢は信の置けぬ人物である。樊の荘公の敗戦に付き従いながら、最終的には樊において最大勢力となった男であり、姜子蘭の存在を知った時にどう動くかは分からない。

 もし智嚢の密偵が優秀で、その手が王畿まで伸びていて姜子蘭が虢から逃げたことを知っていれば、探索の目は末端の関所にまで及んでいるかもしれない。

 少なくともそれを警戒しておかねばならず、関所から離れた山中で盧武成は姜子蘭に聞いた。


「子蘭。お前は魏氏に兵を借りるためにやってきたのであろう。ならば勅書を持っているな?」

「……そのようなものはない」


 盧武成の鋭い問いかけに姜子蘭は否定した。しかし言葉に動揺が見える。盧武成は眉間にしわを寄せ、獲物を睨む猛禽の如き眼差しで姜子蘭を見た。


「王子はご存じないであろうが、関所というものはとても厳しく、そこに詰める兵士は往来の民すべてを罪人か間者と思って接しているのだ。もし怪しげな振る舞いをすれば持ち物から衣服まですべて改められる。そのことを承知の上で、そんなものはないと言うのだな?」


 そう詰め寄られて、姜子蘭は気まずそうな顔をしながら懐から小箱を取り出した。その中には布が巻かれたものが入っている。


 ――やはりあったか。


 盧武成はこういうものがあるだろうと確信していた。

 いかに身なりや立ち居振る舞いが高貴であろうとも、姜子蘭を王子と断定する証拠にはならない。曲がりなりにも虞王の密命を受けているのであれば何かしらその証左となる物があるに違いないと睨んでいたからである。


「分かった。それはそのまま懐にしまっておけ。何があっても手放すなよ」

「言われなくても分かっているさ」


 姜子蘭は、余計な世話と言わんばかりに怒りをあらわにした。盧武成はそれを軽く流す。


「さて、俺たちはこれから関所を越えるわけだが、一つ問題がある」

「問題、ですか?」


 均が首を傾げた。范旦の持っていた身分証が何かまずいのだろうかと不安になったからである。

 しかし盧武成は均には何も言わず、姜子蘭を見た。


「子蘭。お前の服は上質すぎるし、言葉使いが上品すぎる」


 盧武成がそう言ったことの意味が二人には分からなかった。

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