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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
公子三人
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利幼の本心

 姜子蘭が利幼と謁見した次の日。姜子蘭はあてがわれた客間に一人でいた。外には兵士が立っていて姜子蘭の出入りを見張っている。

 そこに不意の来客があった。相手は姜子蘭にこの境遇を強いている利幼である。しかし利幼のほうは、自分で命じておきながらかえって申し訳なさそうな顔をしており、侍童に命じて茶と菓子を二人分運ばせた。


「私にこのようなお気遣いはご無用でございます、利幼公子」

「まあ、そうおっしゃいますな。私としても、父が後嗣の争いを自ら生じさせてから今日まで、心休まる時というものがなかったのです。どうかひと時ばかりお付き合い願いたい」


 自分よりも年長の利幼に対して恭しい態度でそう言われたので、姜子蘭も、


「そういうことでしたら、弱冠ながら公子の無聊を紛らわす一助をさせていただきましょう」


 と有り難く利幼の好意を受け入れた。

 こうしている間にも子狼と盧武成は望諸の地で奔走しており、その首尾如何によっては姜子蘭は命さえ危ういのだ。しかし姜子蘭は実に落ち着いており、茶葉の香りで鼻腔をなぐさめながら出された菓子を堪能していた。


「子蘭どのは落ち着いておられますな」

「はい。自分でも少し驚いております。ですが、死が隣にあれば豪邸の中であっても気が休まらず、死の懸念がなければ牢の中にいても心安らかであるが人なのでしょう。私は子狼と武成のことを信じており、彼らの負ける光景など及びもつきませんので、今は茶と菓子を楽しみながら公子のお相手をすることだけに心砕けているのでございます」


 そう口にする姜子蘭の言葉に裏表はなく、その声は波紋の一つもない湖面のように穏やかであった。


「確かにそうかもしれませんな。私は、今は堅牢な城の中にいて数多の将兵に護られていますが生きた心地がいたしません。子蘭どのは、私が父に薊侯を継ぐ気はないと申したのを御存じですか?」


 姜子蘭は静かに頷く。しかしそれを知られていると分かって利幼は顔を青白くした。


「私はあれを、清廉さや悌心から申したのではありません。ただただ、兄たちと争うことが恐ろしかったのでございます。しかし話が大きくなって、兄たちからは寡欲を装った強欲者だと思われ、私に従う者たちからは国を思う清廉の者だと誤解されてしまっております」


 室内にいるのに、真冬の寒さに震えているような(かじか)んだ声であった。

 これが利幼の本心であり、そして今は余所者の姜子蘭にだからこそ口に出来た魂の悲鳴であったのだろう。

 流石に姜子蘭は、どう返すか言葉に迷った。姜子蘭にも他者に打ち明けられぬ人並みでない苦難があるが、利幼のそれは姜子蘭のそれともまた違う。

 しかし姜子蘭には一つだけ、利幼に同情的になる心を押し殺してでも確かめておかねばならないことがあった。


「人の心はその方にしか分からぬものでございます。ですが、敢えてお聞きしたい。利幼公子におかれましては、その死の恐怖を越え、不悌の汚名を背負ってでも次代の薊侯にならんとする覚悟はおありでございますか?」


 姜子蘭は敢えて言葉を鋭くした。利幼は飛矢に射抜かれた鳥のように固まっている。きっと利幼は迷っているのだろう。そう理解しつつも、姜子蘭は語気を強めて言葉を続けた。


「公子の本心が如何なるものであろうと、薊の百姓は公子が薊侯を継がれれば平和が訪れると思っておられるのでしょう。私も、異国者ながらそう思ったからこそ利幼公子にご助力せんとしてここにいるのです。ですが――公子が我が身の安泰を一義に考え、薊国のことよりも重くお考えであるならば私は先日の約束を反故にして去らせていただきますぞ」


 恫喝とも言える言葉を聞いて利幼は暫し黙り込んだ。そして、遠い目をしながら言葉をこぼした。


「昔は、練孟兄上は尊大なとこはあれど気前がよく、私のことを可愛がってくれていました」


 昔日を思い浮かべながら利幼は語る。その言葉に姜子蘭は静かに耳を傾けた。


「岸叔兄上は、寡黙で何を考えているか分かりづらいところもありましたが、それでも時折私に書を貸してくれたり、見聞した知識を教授してくださることもありました。ですが今思えば、練孟兄上は自分が薊侯を継げると信じていたが故の余裕であり、岸叔兄上は自分が国を継げぬと思っていたが故の卑屈さと諦めだったのでございましょう」


 姜子蘭には利幼の言わんとするところが分かった。

 練孟は盤石と信じていた自分の地位が危うくなり、岸叔は諦めていた薊侯の地位に座れる望みが見えたが故になりふり構わなくなっているのだ、ということであろう。それを口にする利幼には、二人の兄への敬慕がにじみ出ていた。かつて自分を愛してくれた兄たちは今や自分が薊侯になること以外は眼中にないと分かっていても、幸せだった過日を忘れられないでいるのだ。

 その感情を零しつつも、しかしそれを妄念と断ち切るように顔を強張らせる。


「ですが――今や父は考えを改める気がなく、兄たちはただ自分のためだけの君位に固執するのであれば、私は薊の公子として薊の名誉と、この地に生きる百姓のために戦わなければならないのでしょう」


 利幼にとって、その言葉を吐くためにどれだけの胆力を使ったのだろう。相当の覚悟を要したであろうことに違いなかった。しかし、その一言を聞けて姜子蘭は表情を柔らかくした。

 そして、この騒動が決着を見るまでは自分も虞の王子であることを忘れ、薊国と利幼のために戦うという腹を決めたのである。


「それならば、公子はどうか後はご安心ください。そのお覚悟がおありであれば、きっと天が公子の前途を明るく照らしてくださることでしょう」

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