望諸城
夏羿族の言語は独自のものであり、大陸のそれとは異なる。しかし今、夏羿族を束ねる巨漢の将、呀健は大陸の言葉を知っており、故に盧武成の挑発もはっきりと通じた。
しかしそれに怒るわけではなく、むしろ獰猛な笑みを浮かべて前に進み出た。
「威勢のいい若造だ。ここは俺が直々に相手をしてやろう」
「それは光栄だな。貴公の名は?」
「夏羿族の呀健だ。お前たちの言い方では伍伯長、ということになるかな?」
伍伯長とは五百人の兵を束ねることを許された将のことを指す。今は五百もの兵を率いてはいないが、それだけの指揮能力を有し、かつそれだけの地位を手にするだけの実績があるということに他ならない。
盧武成は顔をいっそう険しくし、戟を構えなおす。
呀健の双曲剣が掲げられる。空を泳ぐ燕のような軽やかさで、左右から盧武成めがけて白刃が襲い掛かった。応じるように盧武成も戟を振るう。三つの刃が何度も激しくぶつかり合い、火花を散らした。
決着はなかなかつかないが、呀健が盧武成一人にかかりきりになったことで、怯みかけていた利幼公子の兵も勢いを取り戻して夏羿族に向かっていく。戦況は五分にまで戻り、今や勝敗を握るのは呀健と、両軍にとっては何者かも分からぬ盧武成との一騎打ちであった。
それが分かっているので夏羿族の騎兵は盧武成を横合いから狙おうとし、利幼公子の兵は盧武成を守るように立ちはだかる。今や盧武成は余所者でありながらこの軍の将のようであった。
そして、決着は不意に訪れる。
盧武成は戟を両手で持ちながら戦っているのに対し、呀健は双剣使いであるが故にその重みを片手で受け止めなければならない。打ち合っているうちにやがて握力の弱まっていた呀健は、ついに盧武成の振るう戟の重みに耐えかねて左手の曲剣を落としてしまった。
がら空きになった左側に、盧武成の戟が鋭く走る。その穂先はまっすぐに呀健の胸を貫いた。
大地が血で汚れ、その上に呀健の大きな体が倒れこむ。
こうなると利幼公子の兵らは勢いづき、逆に夏羿族たちは怯惰した。呀健を倒した盧武成は自らの戦果に喜ぶことさえせず、次は誰かと夏羿族を見回す。その睥睨を恐れた彼らは、長城を越えて我先にと逃げ去っていった。
利幼公子の兵は逃げた夏羿族をそれ以上追うことはせず、穴の開いた長城の前に陣を敷き、盧武成に改めて礼を言った。しかし盧武成は、
「私は我が主君の命を果たしたのみ。礼でしたらそちらに」
と言った。その頃には姜子蘭と子狼も合流したので、この部隊の長である三十くらいの男は改めて姜子蘭に跪き謝意を述べたのである。
男は李博といい、元はこの隊の副官であるらしい。しかし先ほどの戦いで隊長が呀健によって討たれてしまったので今はこの部隊の責任者というわけであった。
「それで貴殿は……」
「姜子蘭と申します。故あって今は素性をお話しすることは出来ませんが、利幼公子にお味方したという気持ちだけは本心でございます」
まだ虞の王子と名乗ってはならないと子狼に止められていたので姜子蘭は後ろめたさを感じつつも自分の身分について言葉を濁した。しかし李博はそれでもかまいませんと言い、使者を同行させて利幼のいる望諸の城へ姜子蘭たちを向かわせた。
望諸の城は城郭都市ではなく山城である。どちらかと言えば霊戍に近いものであった。
李博の使者と、彼の書簡があったおかげで姜子蘭たちは未だ素性の知れぬ身でありながらすんなりと城主たる利幼公子に会うことが出来た。姜子蘭はそのことを利幼の好意であり、また迅速な判断ゆえの対応と思っていたが背後に控える盧武成と子狼はそう思っていない。
子狼は小声で盧武成に、
「我らの如き余所者がこうも容易く城主たる公子に謁見できるとなれば、よほど利幼公子の周囲には人がいないらしい」
と囁いた。しかし盧武成からすればそれを口にする子狼は実に白々しいとしか思わなかった。
子狼にはここまですべて織り込み済みであり、だからこそそれらしいことを言って姜子蘭が利幼に肩入れしたくなるようなことばかりを口にしたのであろうと思っている。
既に勢力が盤石であったり、その周囲に閥が築かれていれば、いかに盧武成が一騎当千の戦士であり子狼が奇正応変の軍師と言えど相手にされなかったに違いない。
「しかし、劣勢であれば我らが礼遇されるという理屈は分かる。しかし利幼公子の兵は、あの程度の小競り合いで伯長が討ち死にするほどの弱兵だぞ。それを率いて前虎後狼の公子を勝たせることなど出来るのか?」
盧武成は小声で聞いた。しかし子狼の顔は自信に満ちている。
「まあ任せておけよ。俺はお前のように槍働きは出来ぬが、知略については三万の軍に匹敵するとの維少卿のお墨付きだ。そしてお前の武もまた維氏の将兵では討ち取れなかった豪傑を倒したほどの実力であろう。俺たちが組んで為せぬことがあるとすれば、天命が足りなかったと思うより他にあるまい」
この会話は誰にも聞かれていないのに敢えて大きなことを言い、天命などとらしくないことを口にした子狼のことを盧武成は奇異の目で見つめる。そういうものを全く信じていなさそうで、しかしともすれば子供よりも純粋に信じているのではないかとも思えたからであった。