夏羿族
利幼公子の治める望諸という地は北辺であり、維氏の領と同様に騎馬民族の脅威に晒されている。近くには夏羿という種族がおり、さらに北へ行くとそこは勲尭の領域である。薊国においての激戦地であり要衝であった。
初めは隗謙ら隗氏の手引きで利幼公子に近づくはずであったが、その算段が崩れてしまったのでどうしたものかと考えている。
しかし子狼には策があるようで、望諸が近づくと姜子蘭、盧武成と共に先行した。
「どこへ行くつもりだ子狼?」
何も聞かされていない姜子蘭は不思議そうな顔をした。
「無論、我らを売りつけにいくのでございますよ。范氏の持参した礼物も効果的ではございましょうが、今の望諸は北に狄難あり、南に二公子の敵意がありといった有様でございますからな。強き者と軍略に長けた者を求めているに違いありません」
「し、しかしだからといっていきなり私たちが訪ねたところでどうするというのだ? あちらからすれば我らは素性の知れぬ不審者ではないか」
「そうだな。勅書でも見せるつもりか?」
姜子蘭が口にした疑問に、盧武成は冷淡さを添えて子狼に問いかけた。
「いずれは致しますが、先にそれをしてしまうのは善い手ではありません。という訳ですので――まずは、武成に一働きしていただきましょう」
「何をすればいい?」
「まあ、それは目的地についてから教えるさ」
そう言って子狼はまた黙り込んでしまった。その秘密主義に盧武成は閉口してしまったが、姜子蘭はもう慣れたようで気にする素振りはない。代わりに、不機嫌そうな顔をしている盧武成のほうを見て、
「子狼が何をさせるつもりかは分からぬが、武成の腕を買ってのことだろう。よろしく頼む」
と言葉をかけた。盧武成は、分かりましたと不機嫌さを呑み込んで主君たる姜子蘭の言葉に頷く。
そうしている間に目指す場所が見えてきた。そこには、東西に横断する、両端が見えないほどに果てしなく長い土塁があった。長城と呼ばれるものであり、薊国が夏羿の侵攻を防ぐために築かせたものである。しかし今はその土塁の一角が崩れており、土塁を挟んだところで争いが起きていた。
片方は二百ほどの歩兵が横列を組んでおり、騎乗した、毛皮を着こみ曲剣を手にした軍とも呼べぬ男たちがそれを攻めている。歩兵が利幼公子の兵であり、攻めているのは夏羿族であった。数では利幼公子の軍のほうが多いが、旗色は悪い。
「おう、もう始まっているか。これは好都合だ」
待つ手間がはぶけたと言わんばかりに子狼は笑っている。その顔と、離れたところで行われている両者の争いを見て盧武成は子狼の意図を察した。
「なるほど。ここで俺が加勢して夏羿の連中を追い返せばいいわけだな」
「その通り。出来るか、武成?」
「それが我が君の御為になるのであれば、やるしかあるまい」
飾り気のない言葉を吐いて盧武成は馬腹を蹴る。赤馬、饕朱が走り、瞬く間に盧武成の姿は小さくなっていった。
姜子蘭はその背を見つめながら不安そうな顔をしている。いかに盧武成が強いとは言え、一人で劣勢を覆すことが出来るのだろうかと案じているのである。
しかし子狼は、そんな姜子蘭を安心させるように微笑みかけた。
「我が君にそのように心配されては、武成もかえって不満でございましょう。ああいった小勢の戦いというのは兵同士の数よりも、それを束ねる者を倒すのが勝ちへの一番早い道なのでございます。武成もそれを心得ているので何も言わずに引き受けたのでございます」
「そうか。だが――」
「私はかつて維氏におり、様々な武人を見知っておりますが、敵味方ともに武成より強い男に会ったことはございません」
そう言われても姜子蘭の顔色は晴れなかったが、しかし歯を強く食いしばり強引に表情を引き締め、盧武成を待つことを決めた。
利幼公子の軍と夏羿族との戦いは、夏羿族優勢であった。
夏羿族の中でもとりわけ猛威を振るっているのは、戦闘の黒馬に跨る髭を生やした巨漢である。両手に曲剣を持ち、無人の野を行くように暴れまわっている。その凄まじさたるや、利幼公子の兵が四人がかりで左右から槍を突こうとも、手にした剣で振り払い蹴散らしてしまうほどだ。
兵士たちは段々と、その男が近づくだけで浮足立ってしまい、もはや陣形と呼べるようなものは維持されていない。
勢いづいた夏羿族はこのまま攻め続けようとしたが、その時、横合いで騒動が起きたのに気づいた。
右翼のほうで隊列が乱れ始めたのである。伏兵がいたかと思ったが、そういう様子ではない。そこにいたのは炎のように真っ赤な毛並みの馬に跨った、戟を手にした若い男が一人だったのである。漆黒の鎧と外套を纏っていて、その姿は岩が人の形を取って動き出したような武骨さがあった。
この突然の乱入者に、利幼公子の兵も夏羿族も戸惑い、わずかな間だけ場に静寂が生まれた。その静まりを引き裂くように男――盧武成は叫ぶ。
「我が名は盧武成!! 我が主君の名により、利幼公子に助勢させていただく!!」
突如、そう言われても利幼公子の兵は動揺していた。騎乗している兵となると夏羿族であると思い、まさか自分たちへの援軍とは思わなかったからである。また、それが本当だとしてもこれだけ劣勢の現状でたった一人の援軍などが何になるのだという思いもあった。
夏羿族のほうも盧武成のことを愚かな男と思い、また、一人増えたところで何も変わるまいと高をくくっていた。
夏羿族の巨漢の将――呀健が部下に命じる。その左右から剽悍な騎兵が走り、盧武成めがけて走る。
風を切るような音がした。そして、次の瞬間に二人の兵は胸元を切り裂かれて落馬したのである。
「まずは二人だ。さあ、次はどうする? 四人で来るか? 六人でも、十人でも好きにするといい」
こともなげな顔をして盧武成は戟を構えなおし、夏羿族を静かに挑発した。
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