隗謙の陰謀
姜子蘭一行の助勢で難を逃れた馬車隊は暫く走ったところにある小高い丘の上に入り、そこで改めて話すことにした。
姜子蘭は久々に――といって、僅か数か月ではあるのだが――ここまでの苦難を思えば姜子蘭には積年の友に再会した思いであり、息災そうにしている均との久闊を叙した。
盧武成はというと、子狼と共にこの一団の長らしき青年と話している。この人物には、前に范玄の邸で顔を見たので互いに覚えていたのだ。
「盧氏、此度は窮地を救っていただきありがとうございます」
「いえ、我が君の命にございますれば。ところで貴殿は――」
顔は分かっても名前を聞いていなかったのでそう聞くと、青年は士直と名乗った。范家の家宰である士叔來の子であるらしい。
「ところで、武庸を拠点となさっている范氏の家人たる貴方がたが薊におられることについてはお聞きしてもよろしいのかな?」
「はい。ここで盧氏と再会出来たのも天の導きにございましょう。実は我らは望諸へ向かうところだったのです」
薊の地名に疎い盧武成は横にいる子狼に聞いた。望諸とは薊の北辺の地であり、今は利幼公子が治めている土地らしい。
ことのきっかけは、薊の首都、甲燕にて商いをしている范氏の知己、隗不壬という男からの相談であった。
『薊にて跡目争いが起き、国は乱れようとしています。しかしここで我が家が私財を投じ、名君の素質有る方が次の薊侯になれるように計らえば薊国はさらなる伸展を得て我が家の門はいっそう大きくなることでしょう』
商人は利に聡く、争いの匂いを察して財を増やそうとするのは性とも言える。しかし隗不壬の凡俗でないのは、威勢の盛んな者に取り入るのでなく、薊国の伸展を望めそうな君主に投資しようとしたことである。
「隗氏の思惑は理解した。しかしそこで范氏に話を持ちかけるというのがよく分からないのですがな」
「そこなのですが、実は我が主は近々、薊国にも支店を構えようと考えております。そのための下見に甲燕に赴き、隗氏の元を訪ねた時にその相談をされたようでして」
子狼の言葉に士直が答える。
「なるほど。それで范氏と隗氏は利幼公子に投資なさることに決められた、ということですかな?」
「利幼公子にございます。礼物を持参し、甲燕の隗氏と落ち合って望諸へ向かう段取りでございましたが、我らの動きが露見したようでして、岸叔公子の軍に襲われたのです」
それで盧武成たちはおおよその事情を理解した。
このまま士直たちについていけばとりあえず利幼公子と謁見出来そうなので、護衛という名目で姜子蘭たちも同行させてもらうことになった。
士直は姜子蘭たちがどういう一団なのかは聞かなかった。兄弟という話であった盧武成が姜子蘭を我が君と呼んだことについても気になりはしたが、敢えて尋ねなかったのである。
道中、子狼は士直に隗氏の内情を聞いていた。
隗不壬には隗謙という嫡子がおり、利幼公子の元へも隗不壬の名代として赴くことになっているとのことである。しかし士直とは面識がないとのことであり、落ち合う場所のあたりについたら赤い幟を立てて合図をする手筈になっているらしい。
「なるほど。ところで士氏よ、隗謙どのとは何処で落ち合うことになっているのですかな?」
「魚陽の城外の廟です」
「ほう――」
魚陽は甲燕の北東にある城であり、練孟公子の領内である。その話を聞いた子狼は、馬を飛ばして魚陽へ先行すると言い出した。
士直らにはこのままの道順で魚陽へ向かい、甲燕の東にある棟燕で合流すると行って、一足先に魚陽に走ったのである。
「あの、子狼という御方は何をお考えなのでしょう?」
均は不思議がって姜子蘭に聞いた。姜子蘭も子狼からは何も聞かされていないのだが、何か考えがあるのだろうと思っている。
「子狼は頼りになる男だからな。私には思いもよらない策があるのだろう」
子狼のことを手放しで信頼している姜子蘭は本心からそう言った。そして十日の道程を経て士直らは棟燕で再会した。
「何か収穫はあったのか?」
盧武成に聞かれた子狼は楽しそうに笑っている。そしてすぐに姜子蘭、士直を呼んで自分の得た情報を伝え、向後の段取りについて説明した。
士直と隗謙の約束の日時、その場所である魚陽城の外にある廟では、赤い幟を立てた三台の馬車が並んでいた。薄暗い場所であり、連れてきている侍童に炬火を持たせている。
やがてその前に若い、頭を水色の巾で束ねた軽装の男が現れた。
「貴殿が范氏の使者の士直どのか?」
「そちらは、隗氏のご嫡子の隗謙どのですかな?」
問われて男――隗謙はいかにもと頷く。互いに牘を交わして素性を確かめ合うと、隗謙はさっと右手を挙げた。
その瞬間、戦旗が四方から立ち上り、いくつもの足音が響く。
「……これはどういうことかな、隗謙どの?」
問われた隗謙はにやにやと下卑た笑みを浮かべている。
「見ての通りだ。命が惜しくばその積み荷だけ置いて疾く武庸へ帰るんだな」
「……なるほど。貴殿は既に練孟公子と繋がっていたということか」
「そういうことだ。親父のような古ぼけた考えかたには付き合っていられないからな。お前の持ってきた金品を献上して恩を売らせてもらう」
足音が近づいてくる。練孟の兵であり、四方を取り囲む兵は五十はいるだろう。
逃げ場はなかった。
しかし、
「そうか。それは、あてが外れたな」
そう言ったのを、士直の負け惜しみだと隗謙は嘲笑った。だが直後、士直――に扮した盧武成は馬車から飛び降りた。そして侍童――のふりをした姜子蘭が馬車の荷台に火を付ける。その中身は枯れ草の束であり、炎が燃え上がったことで熱から逃げんと曵馬は荒れ狂って練孟の兵士たちの中へと飛び込んでいった。
「その程度の浅知恵など、こちらの軍師にはお見通してだよ。残念だったな隗謙」
もう一つの馬車の荷台から戟を取り出し、盧武成はその切っ先を隗謙の喉元へ突きつけた。