脩の弓技
正義とは何か。子狼の語ったその問題は姜子蘭にとっても未だ答えのないことであり、姜子蘭は盧武成に問いかけるような、独り言のような呟きを小さく口にした。
口を出して良いものか逡巡しつつも盧武成は、
「それは、これから我が君が世を見聞なさって答えをお出しください」
と返した。そうだなと、その言葉に応じつつ、姜子蘭は盧武成のほうを見て少し寂しそうな顔をする。
「なあ武成――」
「どうなさいましたか?」
「たまには、均と三人で旅をしていた時のように、気軽に子蘭と呼んではくれないか?」
臣従するとなってから、盧武成はずっと姜子蘭に敬語を使い恭しく接している。臣下としてはその振る舞いは正しいのだが、それが姜子蘭には時おりふと切なくなる時があった。
君臣となり、これから盧武成は姜子蘭の行くところならいかなる地まででも随従すると誓ってくれたというのに、盧武成が前よりも遠いところへ行ってしまったように思えたからだ。
「そういう訳にはいきません。それは臣下としての矩を踰えることになります」
毅然とした顔でそう返した盧武成は臣下として模範的な態度であった。
――武成は何も間違ってはいない。
頭ではそう理解しつつ、まだ十三の少年である姜子蘭にはその言葉が重くのしかかった。虞の王子として、盧武成の君主として相応しい振る舞いをしなければならないという想いはあるが、その心を盤石にしきれない心の弱さがあるのもまた事実だった。
二人がそんな話をしている時に子狼と脩が帰ってきた。子狼はとても興奮しており、その両手には二羽ずつの雉を握っている。
「脩の弓の腕は凄いな。きっちりと一矢で一羽を射抜きやがった。維氏の兵にもこれだけの腕の奴はそうそういないぜ」
「ふん、この程度で感心するなんて、平地にはよっぽど弓の下手な奴しかいなかったんだね」
子狼に褒められながら、しかし脩は大したことではないと平然な顔をしている。そこに照れ隠しや謙遜はなく、脩にとってはこれが普通のことのようだ。
だがかつて子狼のいた維氏は遊牧民族、山間民族の軍を率いており、弓馬を生業とする者は多くいた。その子狼から見ても脩の腕前は卓越していたのである。
盂林山脈を越える道中では、脩が食事調達の役割を担うことになった。しかし姜子蘭と子狼は度々、脩について行ってその弓の腕前を観察していたので、脩は段々と疎ましく思うようになってきた。
二人は脩に弓を教えてくれと頼んだのだが脩は、
「教えることなんてありゃしないさ。雉と兎を千羽も射止めるころには誰だってこれくらいのことは出来るようになってるよ」
と言うのである。
弓に詳しくない姜子蘭は子狼に意見を求めたが、子狼は大仰に肩をすくめて首を横に振った。
「優れた射手でも動く的を狙えば十のうち二、三は外すのが常でございます。脩のこれまでの営みが弓矢にあったこともあるでしょうが、それ以上に脩は、本人も言葉で表せない射技の骨を体得しているのでございましょう」
「そういうものなのか?」
「少なくとも私は、必要な獲物の数だけ矢を持っていき、その数どおりの獲物を持ち帰るような弓手を見るのは脩が初めてですな」
姜子蘭は霊戍に来て子狼に狩りに誘われ、そこで初めて弓を手にした。始めのうちは馬上で矢をまっすぐ飛ばすことすら叶わず、慣れてきても思った通りに矢が飛ばないこと、飛んだとしても鏃が空を突き刺し大地を射抜くことのほうが多かった。
しかし脩は、馬上であっても平然と動く獲物に当ててしまうのである。
盂林山脈を越え、そろそろ薊国の領に入ろうかという時にふと姜子蘭は盧武成に弓について聞いた。盧武成ほど強ければ弓の実力も相当に高いだろうと思ったからだ。
しかし盧武成は、人並みでございますと冷たく答えた。
子狼は懐疑の眼差しで盧武成を睨んでいる。
――この男の語る人並みは余人にとっての名手だからな。
時には謙遜が悪徳になる者もいる。盧武成についてもそうだと見ている子狼は心の中で苦笑していた。
ちなみに人並みと語る盧武成の言い分としては、外すときは外すし、そもそもあまり好きではないとのことである。
「まあだいたいの人間はそうだろうぜ。俺だって外したときには当たらないさ」
敢えて冗談めかして子狼は言うが、盧武成は愛想笑いすらしない。
「それは矢のことを軽んじて射ているからそうなるのさ。私に親父に、山中で一矢を外せば一つ死に近づくと思え、と言われたよ。狩りをするには適した時間があり、一つを外せば次の獲物を探している間に時を逃す。それを危険と思えなければやがて飢えて死んじまうのさ」
脩の言葉は鏃のような鋭さがある。狩りだけに頼って生きなければならなかった山中の生活の厳しさを思わせる言葉であった。
その後、盂林山脈を越えて薊領に入ってからも、姜子蘭と子狼は何かにつけて盧武成の弓の腕前を見たがったが、盧武成はと理由をつけて断っていた。
そして盧武成には、そんなことよりも気がかりなことがあった。
「ところで子狼。ここまで俺たちは何者にも咎められずに国境を越えたわけだが、俺たちが今いるのはどのあたりなんだ?」
「ここは列亢という土地でございます。薊国一の肥沃の地であり、今は岸叔公子が治めています」
子狼がそう説明した時だった。
脩があっ、と叫び声をあげる。三人が視線を向けた先では、自然のものではない砂塵が巻き起こっていた。