臣従の理由
子狼は虞王の勅書を、樊の擾乱を誘発させるための陰謀だと言った。
話を聞けば、確かにその文面はそれが起こりうるものであることは盧武成も理解したが、何のためにそのようなことをするのかというのが分からない。
そしてそれについては、子狼にも分からないようである。今の虞王朝の内情が正しく分からないので、推察のための材料に欠けるということであった。
「だが子狼。お前ならば、断定はできずともいくつかの予測くらいは出来ているんじゃないのか?」
「ん、まあな」
「なら話せ」
「別にいいが、そうと決まったわけじゃないからな。それを念頭に置いておけよ?」
そう念押したうえで子狼は言う。
一つは、顓に恫喝された虞王がこれを書いたというものである。野心を東に向けようとした顓が、その第一の策として勅書を使って樊の三卿を争わせようとしているのではないかということであった。
しかし子狼としてもこれはおそらく違うだろう、という様子である。
そしてもう一つの可能性について――。
それを聞かされて、盧武成は思わず卓を叩いた。鈍い音が部屋に響き、床が軋む。
「んな怒るなよ。そうと決まったわけじゃないっつっただろ?」
「それはそうだが――」
子狼に宥められて、盧武成は短気を起こしたことを詫びた。しかしまだ釈然としない面持ちでいる。
「……ところで、我が君はこのことを御存じだと思うか?」
「おそらくは知るまいよ。愚直に天子と王朝を案じておられるにすぎない。そういう御方だからこそ、お前は仕えると決めたんだろ? 俺にしても、そういう人物であれば、父に頼み込んでまで臣従することなどしていないさ」
そうだな、と盧武成は頷く。姜子蘭はそういった薄暗い謀を担えるような人ではないと見ているし、そうあって欲しいというのが盧武成の想いであった。
だが、子狼の最後の言葉に盧武成は眉をひそめる。
「父に頼んで、とはどういうことだ? お前を維氏が王子に与えるのは維少卿からのご厚意ではなかったのか?」
「まあ建前はな。あのようなことをするあたり、維少卿はなかなか食えない人なのだと思い知ったよ」
子狼はひねくれた称賛をかつての父に向けて口にした。
「もともと、俺は王子に仕えたいと口にしたのさ。しかしあの御仁は、ならば最良の形で臣従できる場を設けてやるから暫く待てと言ったんだ。その結果があれさ」
「何がいけないんだ?」
「ほら、あの時に維少卿は俺のことを絶賛しただろう? それも、父としてではなく樊の卿としてな」
「――ああ、そういうことか」
ここまで言って納得を得た盧武成を見て子狼は笑った。先ほどの会話でもそうだが、多少の言葉を口にすればこちらの意を悟ってくれる相手というのは、子狼としても話していてやりやすい。
「つまり維少卿は兵を貸すことは出来ない。与えることが出来るのはお前一人だが、その価値が大きければ我が君が感じる維少卿への恩も大きくなるということだな」
「ま、そういうことだ。いくら縁を切ったからといって、自分の息子をああまで人前で褒めるなんてしねぇよ普通」
「ならば、お前自身はどうなんだ? 維少卿のあの評価は自らの才幹に対して過分だと思うか?」
そう聞かれて子狼は、さてな、と返す。
実のところ子狼は、自分の軍略の才についての評価というものはない。主君や兵に対して安心させなければならない時には自信満々に振る舞うし、自分を弱く見せて侮らせたい時には遠慮気味に振る舞う。
そして策を立てる時には、ただ彼我の力量や得手不得手などを考慮しながら考えるだけであり、その場での最善を尽くしはするが、どちらが優れているかということなどは考えないのである。
そういった子狼の胸中など盧武成はわからないが、あまり語るつもりがないということだけは察した。
「ならばもう一つだけ聞かせてくれ。お前は何故、王子にお仕えしたいと思ったのだ?」
「その話は前にお前にしたぜ。しかし――ああ、この話はもう一度、我が君の前でちゃんとしなければなるまいよ」
子狼が改まった顔でそう言うので盧武成としてもこの場で聞くことは出来ず、この夜の話はこれで終わりとなった。
冬の到来を告げるような冷たい風が林間を吹き抜ける。立ち並ぶ木々はいずれも枯れ葉一枚の装飾すら持っていなかった。
鈍色の雲を天蓋とした盂林山脈の山道を姜子蘭の一行は馬を並べて進んでいた。
「ところで王子は、ここを越えた先にある薊国のことを御存じですかな?」
子狼がそう聞いた。答えようとする姜子蘭を遮って盧武成が子狼を睨む。
「おい。それはそれで大事な話だが、昨夜の話の続きはどうした?」
姜子蘭と脩には何のことか分からなかったが、子狼は小さく舌打ちした。
誤魔化すつもりではないだろうな、と盧武成がまなじりを決する。子狼は仕方なく、昨夜の話――何故子狼が王子に仕えたいと思ったのかを話すことにした。
子狼がそれを積極的に話したがらないのには、嫌だというより、素面でするには気恥ずかしいという感情がある。そういう素振りを見せているわけではないのだが、盧武成はそう感じた。