勅書の謎
子狼が口にした勅書の文章であるが、盧武成にとっては何が気になるのかまるで分からなかった。
天子の危殆と顓の脅威を訴え、その中でかつての樊の荘公の功績を称賛しつつ助けを求める。言ってしまえばそれだけの文言である。
「ふむ、お前はどうも腕っぷしは強く博識ではあるが、謀略には向かねえな」
そう言われて盧武成はわずかに愠色を示した。そんな盧武成に子狼は声を低くして勅書に対して自分の感じた違和感を語る。
「おかしなところは二つある。これは虞王の勅命だが、誰に対して命じるかを書かれていない。そしてこういう書き方をするのであれば、樊伯に宛てるべきだろうぜ」
「それはそうだが、今の樊伯に大した力などないだろう? ならば実質的な力を持つ卿を頼みとするというのはそうおかしな考えではないと思うが?」
「まあな。しかし武成よ。お前は杏邑を目指すと聞いた時点で疑問に思わなかったのか? 果たして魏氏だけの軍で顓を倒し虞王を救うことなど出来るのか、ってよ」
そう聞かれると盧武成は、まあ、と口にした。それは盧武成も疑問に思っていたことである。
樊の三卿の中で最も勢力が大きいのは正卿の智氏であり、独自の軍事力を有しているのは少卿の維氏である。魏氏は発展こそしており、物資面では裕福であるが三卿の中で軍を頼みに出来る相手かと聞かれれば心もとない。
「智氏と維氏が信用できないからではないか? 智氏はその貪婪が透けて見える。それに、お前にこういうことを言うのは悪いが、維氏の軍の強さは北狄だ。そういった軍を頼めば、顓を退けることが出来たとしても維氏が新たな顓となって専横を始めると思われているのではないか?」
絶縁されたとは言え、維弓の子である子狼に遠慮しながら盧武成は言う。しかし子狼はそのようなことは特に気にせず、その上で盧武成の考察を否定した。
「そういった時世も見えず、危地から逃れるのに手段を妥協するような時勢の見えぬ愚者が書いたものとも思えねぇんだよ。それなら、たとえ本心がどうあれ魏氏の太鼓腹を名指しして持ち上げるような文章を書くだろうぜ」
「まあ、それもそうか。しかしならば、この密勅はいったいなんだというんだ?」
結論を焦らす子狼に、盧武成は段々と苛立ってきた。しかし子狼はそれを手で制する。
「順を追って話すぜ。とりあえず、一つお前に聞こう。もしお前が魏氏の氏長だとしよう。お前は尊王家で、勅命を受けたからには虞王を救わなければならないとなったらどうする?」
嫌な仮定だと思いつつ、盧武成は考えた。
「そうだな……。王子と勅書を伴って樊伯のところへ赴き、智氏と維氏を動かし三卿で連合するより他にあるまい」
無難な答えであった。しかしそれは子狼の望む回答であり、満足そうに頷く。
そして子狼は次に、さらに盧武成の嫌がりそうな過程を押し付けた。
「ならばお前が、性格のねじ曲がった悪卿ならばどうだ? 権力と富にしか興味がなく、自らの欲望を一義とする人間だとすれば?」
「やめろ。何故俺がそんな考え方をしなければならん」
「まあ、試しにやってみろよ。それに、これからの王子は善人よりも悪人外道と戦うことのほうが多かろうからな。そういった連中から王子を守るためには、その思考を読み取って先取りしなければならない。つーわけで、頑張って思考を下衆くしてみろよ」
王子――姜子蘭のことを出されて、盧武成は仕方なく子狼に言われた通りの考察をした。子狼の言葉には道理を感じたのだが、それはそれとしてうまく誘導されているように癪である。
だが、自分なりに考えてみた結果、出た結論は――。
「……勅書を楯に、他の二卿の上に立とうとする、か?」
「ま、悪くはないな」
上からくるような言葉が気になったが、盧武成にとってはこれでも必死になって考えたのである。
流石に悪いと思ったのか、子狼はいたわるように盧武成の肩を叩く。
「どうもお前にはこういうことは無理らしいな。しかしまあ、俺が王子に仕えることになったからには、こういう嫌らしくて汚いことは俺がやってやるよ。お前は王子の眼前の敵を蹴散らすことだけ考えてりゃいいさ」
「――それは有り難い。どうにも俺は頭の出来が悪いらしいからな。それでは、子狼殿の賢察を拝聴させていいただくとしよう」
盧武成は皮肉といら立ちをふんだんに言葉に込めた。
「俺であれば、勅書を見せてまず維氏を従わせる。維氏は魏氏よりも格下で、しかも氏長の維少卿は樊でも有名な尊王家だ。魏氏のことは嫌いでも勅命には逆らえまい」
「それで、維氏と組んで智氏と戦うということか」
「そういうことだ。ところがこうなると、次に起こるのは――勅書の奪い合いだよ」
そう言われて、盧武成は遅まきながら子狼が感じた、勅書の文言への疑問を理解したのである。
今の樊の三卿には、どの氏にも単独の軍で顓を倒すだけの力はない。そうなれば虞王の威光を使って他の氏族を動かすしかないのだ。しかし元来が不和の三卿である。連合するとなれば誰がその軍を主導するかという争いが起きることは明白だった。
そうなった時に、自らの権威の箔付けとなるのが勅書なのである。
「あの文言だと、樊として虞王を助けてくれと書いてあるようにも見える。しかも誰への命令かが明記されていない以上、勅書さえあれば誰が主導しても不都合はねえのさ。となると、これまで曲りなりにも均衡が保たれていた樊が乱れることになる。つまりあの勅書は、樊の擾乱を引き起こすための陰謀ってことだよ」