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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
双士戟弓
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碧甲黒袍

 子狼の歌はただ下手というわけでない。とにかく喧しく、その上で耳障りなのだ。しかし姜子蘭はその――この場において誰もが騒音としか感じていない歌声を絶賛した。その顔は自然なものであり、十三の少年らしい無垢な笑みを浮かべている。


「私は北辺の歌には疎いのだが、それでも子狼の歌の良さは分かるぞ。荒々しさの中に勇ましさがあり、心を昂らせ奮い立たせてくれる素晴らしいものであった」


 姜子蘭は思わず立ち上がり子狼の手を取る。子狼はそのように褒められて一筋の涙を流していた。

 子狼は当然ながら、これまで歌声を褒められたことなどなく、始めて自分の歌を認められたのである。その喜びはひとしおだった。

 周囲の者たちはそれを、戸惑いを抱きながら眺めている。


「……ねえ武成。本当に子狼の歌って、ただ下手なだけなのかい? それとも私みたいな山育ちには分からないような雅さとかがあったりする?」

「……ない、はずなのだがな?」


 脩に聞かれた盧武成も戸惑いを隠せないでいる。盧武成は歌舞音曲には疎いのだが、子狼の悪声はそういう芸術の機微を解する感性の有無などは関係なく、ただの騒音でしかなかった。

 しかし、姜子蘭の応対を見た肥何は盧武成に小さく囁いた。


「王子は君子であらせられますな」


 君子とは得度と人倫に優れた人物のことを指す。


「人の上に立つ方は他者のことを衆前で悪く言わないものです」

「いや、その……これは、そういうことなのでしょうか?」


 確かにここで姜子蘭が子狼の歌を下手だと口にすれば子狼に恥をかかせることになる。それを避けたとも取れるのだが、どうにも盧武成には姜子蘭が心の底から子狼の歌を気に入っているようにしか見えなかった。

 事実、今も二人は歌について熱く語り合っている。

 嫌な気配を悟った盧武成は中座し、脩もそれについていく。ならばと維弓は肥何に命じて屋敷の庭を案内するように命じた。

 四半刻(三十分)ほど、ゆっくりと時間をかけて夜の庭園を見回ってから三人が戻ると、そこでは維弓と維叔展が拷問を受けた後のように憔悴しきった顔を浮かべていた。

 そして姜子蘭と子狼はとても楽しそうにしている。あの後も子狼の聞くに耐えない騒音を聞かされ続けたであろうことは想像に難くなかった。




 翌日。

 まだ朝霧も晴れぬうちに姜子蘭、盧武成、子狼、脩の四人は霊戍を跡にした。維弓は見送りを申して立たのだが姜子蘭はそれを固辞したのである。

 脩については、もし霊戍に留まるのであれば肥何が面倒を見ると申し出たのだが、脩は、


「こんな身内も知り合いもいない土地でお客さん扱いされたって居心地が悪いったらありゃしないよ」


 と言って姜子蘭たちに同行することを決めたのだ。

 ちなみに子狼は肥何にも付いてきてほしいと頼んだのだが、肥何は霊戍に骨を埋めたいと言ったので子狼としても無理強いは出来なかったのである。

 しかし、霊戍を出たものの次にどこへ向かうべきか姜子蘭にはまるで当てがなかった。

 姜子蘭がそれを聞くと子狼は、


「何、お気になさいますな。まだまだこの天地は広うございます。さしあたって、東へ向かいましょう」


 と気軽に言った。




 子狼が姜子蘭たちと旅立った数日後。

 肥何一人になった子狼の屋敷に訪問者があった。たなびく長髪を馬の尾のように束ねた、若く、整った顔立ちの女性である。

 その身には碧色の胸当てと手甲を纏い、黒い(うわぎ)を羽織っている。


従兄(あにき)、帰ったぞ!!」


 雷鳴のような叫び声を上げて彼女は子狼の邸に入る。その荒々しさは強盗のようであった。

 騒がしさを聞きつけて肥何がやってきた。そしてその相手を見て恭しく一礼する。


「これはお嬢さま。お帰りになられましたか」

「おう、肥何か。息災で何よりだ」


 お嬢さまと呼ばれた女性は肥何を見て頬を緩ませた。

 彼女は趙白杵(ちょうはくかん)と言い、その母親は翟氏の人であり子狼の母の妹にあたる。つまりは子狼の従妹にあたる女性であった。


「お帰りになられたということは、善き殿方はおられませんでしたかな?」


 肥何は僅かに声を落として言う。

 趙白杵は維氏の領外に婚家を求めて旅をしていたのだ。

 彼女は元来の性格が苛烈であり、幼き頃より淑女の修めるべき嗜みよりも馬術と武術を好んだ。その気性故に貰い手がなく、維弓の命によって領外に嫁ぎ先を探す旅に出ていたのだが、こうして帰ってきたということは良縁がなかったということである。

 しかし当の趙白杵には落胆している様子がまるでない。


「まあ、良縁などそのうちあるさ。私が納得出来る伴侶と巡り会えぬのであればそれもまた天命だろう。つまらぬ良人と結んで退屈な生を終えるくらいなら、独り身のほうがよほど良いというものさ」

「まあ、お嬢さまはそうかもしれませんな」


 肥何は諦めたように言う。肥何にとっては子狼も趙白杵も共に孫のようなものであり、二人の幸福を願う気持ちはある。女子である趙白杵の幸福とは婚家であるのだが、当の趙白杵がそこに妥協出来ぬのであればそれもまたやむ無しという気持ちもあった。


「ところで肥何。従兄(あにき)はどうした? 伯父上のところか?」


 そう聞かれて肥何は経緯を話す。その説明を聞きながら、趙白杵は段々と顔を紅に染めていった。


「ふざけやがってあのくそ従兄(あにき)!! 自分だけ楽しそうなところに逃げやがって!!」


 趙白杵の怒り方は独特であり肥何は戸惑った。そんな肥何を他所に趙白杵は一人、怒りを燃やしている。


「もう我慢ならない!! 私は従兄(あにき)を追いかけて一言くらいは文句を言ってやる。止めても無駄だぞ肥何。このままじゃ私の腹が収まらないんだよ!!」

「は、はあ……。しかし子狼様は我が君の命で……」

「知ったことか!! 一発くらい殴ってやらなきゃ私の気が済まないんだよ。で、従兄(あにき)は虞を救いに行ったんだな?」


 そう聞かれて肥何は気圧されながら頷く。

 それだけ聞くと趙白杵は馬に跨り――南に向かって一目散に駆けて行った。

第二章「双士戟弓」編はこれにて終了です。明日よりは第三章「公子三人」編が開始します。ここまで読んでくださった方々、ありがとうございます。引き続きよろしくお願いします!!

特に!! 毎話、更新するごとにリアクションをいただけることは本当に励みになっております!!


読んでいただいて思ったことがあれば感想などいただけますと歓喜します!!

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