双士戟弓
後の世に軍才に長けている人への称賛として使われる、“機略敵三軍、用兵足千乗之弼”とは維弓の言葉である。
虞の兵制において一軍とは一万の兵を指すので、三軍とは三万の軍勢のことである。
そして、乗とは戦車の単位であり、諸侯は千乗の保有を許され、天子のみが万乗を保有することが出来る。つまり千乗とは諸侯のことを指し、諸侯の軍を補佐することが出来るという意味だ。
維弓は、勘当したと言えど我が子に対して、三万の軍に匹敵する智略と、諸侯の元帥足り得る才幹があると子狼を評したのである。
そこまで言われると、一度は臣とすることを認めながら、しかし姜子蘭は遠慮してしまった。
しかし維弓は、
「我が右司馬は子狼を凌駕する者でございます。楼右司馬あれば北の守りは盤石ですので、王子におかれましてはご憂慮なさいませぬな」
と姜子蘭に言った。
些少の路銀をいただけるだけでも有り難いと考えていた姜子蘭には望外の好意である。
しかし維弓はそれに留まらず、先の戦いで姜子蘭が使った鎧と軍馬――迅馬もそのまま姜子蘭に贈ると言ってくれたのである。
姜子蘭は維弓に深々と頭を下げ、もし私が宿願を果たすことが出来たなら必ず維弓の恩に報いると父祖への誓いの言葉を口にした。
そしてその日の夜。ささやかながら姜子蘭の前途を祈るための祝宴が行われた。
これも維弓の好意であり、維弓は東に座し、肥何と維叔展を南に座らせて姜子蘭を招く。
姜子蘭は盧武成、子狼、脩を伴って西に座っている。しかしこの宴席は形式ばったものではないので、最初こそ堅苦しいものであったがすぐに各々の座席は入り乱れた。
姜子蘭は維弓と卓を突き合わせて話し込んでいる。姜子蘭は立場こそ維弓の主君筋であるが維弓に師のように接した。
維弓のほうもその敬意を受け止めつつ、人の上に立つ者、よき君主の心構えなどについて語っている。
一方の盧武成は眉一つ動かさずに黙々としていた。酒にも手を付けず、たまに脩に勧められた料理を口にするくらいである。
そこへ子狼がやってきた。子狼のほうは既に軽く酔っており、声を弾ませて盧武成と肩を組む。
「おう、進んでいないじゃないかご同輩?」
「主君の前で酔うのは無礼だろう」
「それもそうだな。しかし我が君が招かれた席で出された酒に口をつけぬのも無礼であろう。我が君と維少卿の顔を潰すことになる」
そうくだを巻いていると、そこに維叔展もやってきた。維叔展は手に酒器を持っており一献継がせてくれと言ってきたので、これを断ることは流石に出来ず杯を出した。
「盧氏よ。どうか我が愚弟のことをよろしくお頼みいたします。これは、頭は良いが性根が捻くれておりますので」
維叔展はそう言って頭を下げる。そう評されて子狼は少しだけ不満そうな顔をした。
「私は勘当された身ゆえ、もう弟ではありませんよ」
「何を言うか。縁は切れても血は繋がっている。それに、父上はお前を子と思わないと仰せになったが、俺はお前を弟と思わないなどとは一言も言っていないぞ?」
「そういうのを世では詭弁と申すのです」
「ふむ、そうなのか? これは、自慢の弟に教わった論法なのだがな?」
快闊な声で皮肉を返されて、子狼は些か居心地が悪そうな顔をした。そんな子狼を宥めるように、維叔典がその肩を叩く。
「今日くらいは良いだろう。これが最後かもしれんのだ」
鷹揚な声で言われると子狼も、まあそうですなと頷いた。兄弟のそんな微笑ましいやりとりを盧武成は代わり映えのない無愛想な顔で聞いている。酔った勢いもあって、子狼はそれがとても不愉快に映った。
「おい武成。お前は何をそんなにつまらない顔をしている? 笑え、楽しめ!!」
「充分よくしていただいている。この顔は生来の物だ」
「いいや許さん。そんな陰気な顔のままで王子の傍に仕えられようものなら、通る宿願も通らぬというものだ」
「俺の顔と我が君の宿願は関係がなかろう?」
「いいや、陰気は悪性を呼ぶものだ。よし、ならばお前の昏さを払うために一つ――俺が歌ってやろう。そうすれば少しくらいはお前の、枯野や岩山の如く荒漠とした心も弾むことだろうぜ」
子狼がそう言った瞬間――姜子蘭と盧武成、脩を除く維氏の者たちの間にどよめきが走った。しかし当の子狼はそのようなことなど気にも止めず、盆を手に取り箸で叩きながら大声で歌い始める。
「四方有四夷 四方に四夷あり
虞必無救軍 虞に必ず救うの軍無し
王子携大志 王子大志を携えて
得双士北辺 北辺にて双士を得る
競戎未有兵 戎と競うに未だ兵を有さず
唯有戟弓耳 唯だ戟弓有るのみ
噫危哉難哉 ああ、危ういかな難いかな
然我等不休 然れども我等休らわざる
願天我君覧 願わくば天我が君を覧よ
必以為正義 必ず以て正義を為さん」
それは姜子蘭の旅に栄えあれと願う歌であった。
使命を秘めて北に流れついた姜子蘭が盧武成、子狼という臣を得た。未だ兵はなくこれから顓と戦うという愚行に挑もうとしている。しかし我らは躊躇うことはない。天よどうか我が君をご照覧あれ、必ず地上に正義を為されるお方であると謳いあげた。
悲壮を払い、前途に希望を持たせる詞である。だが――それを歌い上げる子狼の声は聞くに堪えぬ大騒音であり、言葉の内容などまるで入ってこず、盧武成と脩は耳を抑えながら、得も言われぬ頭痛と胸やけに襲われていた。
「なんだい武成、平地の奴らってのはこんな猪のいびきみたいなものを有難がって娯楽にしてるのかい? これならまだ蛙の鳴き声のほうが聞いてて楽しいよ!?」
「そんなわけがないだろう!! 俺だってこんな酷い音は生まれて始めて聞いたさ。こんなものを聞きながら酒を飲むくらいなら、百頭の牛の足音か歯ぎしりでも聞きながら寝ろと言われるほうがましだ!!」
後の史書にさえ、
『子狼酔えば必ず歌う。其の声甚だ悪し』
とさえ書かれるほどに子狼の歌は酷いものである。
聞いたことがあるであろう維弓たちでさえ目を瞑って耐えていた。
そして――この場における一番の貴人。そして子狼の歌を始めて聞いた姜子蘭は、歌い終えた子狼を見つめながら肩をわなわなと震わせている。
「お、王子。申し訳ございません……。高貴なお耳に、聞くに耐えぬ悪声を入れてしまい……」
維弓がそう謝罪する。しかし姜子蘭は目を輝かせていた。
「す、素晴らしい歌ではないか!! 子狼は頭が良いだけでなく詩作と歌唱の才もあるのか!!」
その言葉に一同は愕然とした。