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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
双士戟弓
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機略敵三軍、用兵足千乗之弼

 維氏の領を出た方がよい。維子狼はそう言った。

 驚いたような顔をしたのは盧武成である。しかし維子狼はその反応を、心外だと責めた。


「私は王子に、臣とお思いくださいと言った。そしてお前とは(あざな)を呼び合う仲だろう? ならば主君の諮問には忠心を持って答え、友の前では篤実な言葉で語らねばなるまいよ」

「お前にもそういう殊勝な心掛けがあるのだな? 誠実や正直というものから最も縁遠そうな性格をしているくせに」

「無論、あるとも。しかしお前の見立ても間違ってはいないさ。俺は万人に誠意を見せることはしないが、自分が認めた相手と敬意を払う人物には真摯でいたいと思っているよ」


 このようなことを口にするところに維子狼の屈折した性格を感じる。

 しかし少なくとも、今この場での言葉には偽りはないと盧武成は感じた。それは姜子蘭も同じで、その言葉を疑うことをせずに、維氏の領から出たほうがよいと考えた理由を聞いた。


「一つには、勲尭との戦いが起こると申しましたが、もう間もなく冬が訪れます。我が父の領はその大半が豪雪地帯であり、我らも勲尭も冬の間は兵を動かせません。帥を起こすには雪解けを待たねばならぬのです。

 二つ目に勲尭は強く、まずもって一年のうちに勝敗が明らかになることはありません。しかも勲尭はその全軍をこちらに集中できるのに対し、維氏は智氏、魏氏への備えにも兵を割かねばなりません。

 そして三つ目に――虞王朝を再興せんと大志を抱いておられる方が見込みのない地にいつまでも留まって時間を浪費させてはなりません。維領での逗留が長引けば、一日が千斤の足枷となって王子にのしかかることでしょう」


 維子狼の言葉は姜子蘭の胸を強く打った。

 維氏の領にいる限りは姜子蘭は安全だろう。しかしそれは安穏な寝床に執着することであり、そういうものを求めるような心持ちでは何事も為せないと言っている。

 姜子蘭は目を瞑って考え込むと、長く息を吐いた。そして目を見開いて盧武成を見る。


「武成。私は維氏の領を出ることにする。同行してくれるか?」

「私は王子の臣でございます。王子の赴かれるところであれば、この世の地平まででも随行いたします」


 姜子蘭の方針は決まったので、次の日に姜子蘭は盧武成を伴って維弓と対面した。

 その場には維弓とその四人の男児――維孟、維仲堰、維叔典、維子狼。そして楼環がいる。

 厳かな空気が漂う中で姜子蘭は維弓に深々と頭を下げた。


「虞王の第四子、子蘭はこの地を去らせていただきたく存じます。維少卿に受けた大恩に対し何一つの返礼もせず不義理を為すをどうかお許し願いたい」


 そう言われて維弓は思わず駆け寄り姜子蘭の手を取った。


「そのようなことを仰せなさいますな。王子が我らを頼って下さったにも関わらず、微力さえ尽くせぬ不忠者に頭を下げてはなりません」


 維弓にそう言われて姜子蘭はおずおずと頭を上げた。その顔には、心の底から申し訳ないという感情が湧き出ている。


「王子には大望がおありです。それはこの世の何よりも重いものでございます。(わたし)の身としては、たとえ維氏が滅びようとも兵を南へ挙げねばならぬのですが、少人であるが故にその決断さえできませぬ」

「いいえ。維少卿は樊の、ひいては虞王朝にとっての北の守り手でございます。この地に貴殿の如き忠臣がいなければ今ごろ虞は西戎と北狄に蹂躙されていたことでしょう」


 その言葉に維弓は落涙した。姜子蘭の言葉はこれまで維弓がやってきたことを認めるものであり、同時に、これから挑む勲尭との戦いを虞王への忠勤であると認めるものである。これよりも心を打つ言葉はなかった。

 維弓は服の袖で涙を拭いながら、維子狼を呼んだ。維子狼は両手で銀の盆を持っており、その上には姜子蘭が携えてきた虞王の勅書がある。


「臣(よう)、力足らずして恐れ多くも賜りし勅を返上させていただきます。なれど――これから、さらなる困難に挑まれる王子のために、どうか一つだけ助勢させてはいただきたい」

「助勢、ですか? それは有り難い限りでございますが、これから勲尭と戦われるにあたって維少卿には兵の一人、兵糧の一抹さえ惜しくありましょう」

「お気遣いは嬉しゅうございますが、遠慮をなさいますな。臣が自ら差し出すと申した物を取るのは人の上に立つ者の度量でございます」


 そう言われた姜子蘭は一度だけ後ろを見る。そこに控えている盧武成は小さく頷いた。維弓の好意を無碍にしてはならないと目で諭したのである。

 ならば、と姜子蘭が頷くと維弓は維子狼のほうを見た。


「昌よ。おぬしはこれより王子にお仕えせよ。今後、維氏を名乗ることはならぬ」


 昌とは維子狼の(いみな)である。唐突な勘当を目の当たりにして姜子蘭は驚いたが、それを告げられた維子狼はまるで動じることなく維弓の言葉を受け入れていた。


「王子の苦難はお前の苦難であり、王子の敵はお前の敵だ。それは、もし相手が私であっても例外としてはならぬ」

「承りました」

「ならば王子の前に跪いて臣下の礼を取れ」


 言われたままに子狼は姜子蘭の前に進み出て拝手する。


「姓を(えい)、名を昌。(あざな)を子狼。本日より王子にお仕えさせていただきたい。我が智慧が有用と思われれば存分にお使いください。そして――王子の大願に私が不要と見なされれば。いつでもお捨てくださいますように」


 子狼は恭しい声で言う。澱みなく、あらかじめ考えられていたかのような言葉には、渓谷の清流のように澄んだ純粋さしかなかった。


「そうか。では――よろしく頼む」


 姜子蘭もそれを受けた。それは維弓への気遣いではなく、子狼という人物が自分の臣となってくれるという事実が何よりも嬉しかったからであり、本心からの言葉である。


「ところで維少卿どの。貴殿の目から見て、我が臣子狼の才覚はいかほどと思われますか?」


 つい今しがた臣下の礼を交わしたばかりであるにも関わらず、子狼のことを我が臣と呼んだのは、維弓の、父としての贔屓目を拝した子狼の評価を知りたかったからである。

 維弓は考える素振りすらなく、整然と口にした。


「機略は三軍に(かな)い、用兵は千乗の(たす)けに足ります」

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