誓天与父
臣従したい。盧武成は姜子蘭にそう言ったのである。
姜子蘭にとってはあまりにも慮外の言葉であった。そういった束縛を好まないのが盧武成という人だと思っていたからである。しかし盧武成の顔はいたって真剣であり、その言葉を軽んじてはならないということは姜子蘭にも分かった。
「……私には、地位も禄も、武成に約束してやれるものは何一つないぞ?」
「私には養うべき家族もなければ、名誉を史書に残したいという気もございません」
あまりにも飾り気のない言葉である。
「それでは、私ばかりが得をしてしまうではないか」
「では――いずれ王子が大業を成し遂げられた時に、私の働きに相応しい地位と恩賞にて報いていただきたい」
姜子蘭はそう語る盧武成を測るような目で見つめた。今、苦境にある自分に恩を売っておけば、もし姜子蘭が大功を立てた時には多大なる褒賞を得ることが出来る。博打とも言えるが、そういう夢のようなものに命を投げ打つ者とているだろう。
しかし盧武成はそういった風ではなく、むしろこの言葉こそが建前のように姜子蘭には思えた。
これが言い訳となれば、本当の目的は初めに告げた通り、姜子蘭に仕えることであろう。しかし姜子蘭には盧武成が――この豪勇の旅人が、どうして浮草の如く頼りない自分への臣従を求めるのかが分からなかった。
「武成。正直に答えてほしい。何故お前は、急にそのようなことを言い出したのだ?」
考えても何も分からなかったので、姜子蘭は直截に聞いた。
「それは――我が心はすでにこうすべきと決めているのでございますが、それがいかなる心境より出でた物であるのか、語る言葉が未だに出てこぬのでございます」
盧武成もまた正直であった。ただし、姜子蘭に仕えたいと思う気持ちだけは本心であると強調した。
「ですが一つだけ、確信していることはございます」
「な、なんだ?」
「王子が私を臣として認めていただけたのであれば、王子はきっと私にこの決断を悔いさせるようなことはなさらない、ということです」
それは盧武成という、剛腕を鳴らしながらも武骨な男の口から出た最大の賛辞であった。しかし同時に、まだ十三の少年には過度な期待でもあった。
その圧に姜子蘭は、首を絞められるような感覚を覚えた。
しかし同時に、以前に維子狼に言われたことを思い出していた。
『大業を為すためには優れた者を味方につけなければなりません』
そして同時に、盧武成にかつて言われたことをも思い出す。
『苦痛を負い、恥を受け、死に勝る痛みを味わうことがあっても受け入れろ』
虚王という自らの祖父の大罪を贖うためにはそれが必要だと、かつて厳しく告げられた。
盧武成は稀にみる勇将であり、それを臣として抱えるということには大いなる責任がある。姜子蘭の如き吹けば飛ぶような王子に仕えずとも、如何様にも身を立てられるであろう人物の君主となるならば、それに必ず報いることの出来る人物にならなければならないからだ。
未だ先行きの見えない姜子蘭にとっては重荷であった。だが、
――この痛みを越えた先にあるのが、武成という稀代の名将であれば、むしろ私は果報に過ぎる。
とも思ってしまうのである。
姜子蘭は立ち上がると、一度だけ大きく息を吸い込み、告げた。
「ならば武成。今日より汝には私の臣となってもらう。私より先に死ぬことは許さぬし、私が勝てと命じた敵に負けることも許さん。しかし――必ずや、その働きに余りある貴位恩賞を持って報いることを誓おう」
その言葉を吐くのに、しかし姜子蘭はやはりそれなりの覚悟がいった。
それを聞いた盧武成は、その言葉を有難がるでも感激に震えるでもなく、静かに聞いてから頭を垂れたのである。
「盧氏、靂胥の子、諱を錬。これよりは王子のためにその身命を尽くすことを天と父に誓います」
諱は親や君主など目上の者しか呼ぶことは許されない。それを教えることを証として、盧武成は偽りなく姜子蘭に臣従することを誓った。
ただし盧武成はここでも、自分の父親は虚王の兄であり、姜子蘭の父――虞王の従弟に当たる素性だということは敢えて口にしなかった。
かくして、ここに姜子蘭と盧武成という、後の世にも名高い君臣が生まれた。
しかし姜子蘭は、そもそも維氏の領に留まるか他国に出るかという悩みがあり、その結論は未だ出ていない。姜子蘭は臣となった盧武成に改めて意見を求めた。
問われた盧武成は難しい顔をして黙り込んだ。無論、盧武成は姜子蘭の問いかけに真摯に向き合っているのだ。しかし、こういった問題に向き合うことは盧武成にとっても不得手であり、軽率に答えることは不誠実であるという想いが盧武成の口を重くしていた。
ちょうどその時、維子狼が訪れた。
「何とも――深刻な顔つきをしておられますなお二方?」
見計らったような参上である。盧武成は先ほどまでの話を聞いていたのではないかと訝しんだが維子狼は涼し気な顔をしている。
姜子蘭は、このまま維氏の領に留まるかどうかで悩んでいると正直に打ち明けた。駆け引きも何もない愚直な相談であったのでつい維子狼は苦笑してしまう。
維子狼は維弓の子なのだ。維氏としては王子という御旗を有しているほうがいいに違いないので維氏の縁者や臣下に聞けばまず誰でも、ここにお残りくださいというに決まっている。それなのに姜子蘭は直截に意見を求めてきたのだ。
しかし姜子蘭の真剣な眼差しと、盧武成の人さえ殺せそうなほどの強い睥睨を前にして維子狼は居住まいを正した。
「そうですな。私が思いまするに――王子はここを出られるがよいかと存じます」