疑事無功、疑行無名
盧武成は、どうやら自分は姜子蘭のことを捨て置いて今まで通りの気ままな旅を続けることは出来ないらしいとようやく悟った。しかしまだ、自分が誰かに仕えるということを想像できずにいた。
そんな逡巡を巡らせている間に、維氏のほうでも事情が変わった。
陶族の降兵からもたらされた情報が維氏に激震を与えたのである。
此度、陶族が寡兵で維氏の領に攻め寄せたのは、陶族が勲尭と結んだからだとのことであった。
勲尭とは陶族よりもさらに北で活動する遊牧民族であり、遊牧と簒奪を生業とする氏族である。北地に勢力を伸張させた維氏でさえ未だ未知の、遥か北方の草原に住む者たちであり、その強大さは聞き知っていたがこれまでは害がないので放置していた民族であった。
それが今、陶族と結んだということはいよいよ大陸――維氏の領を落として拠点とし、畿内を侵さんとしている証左に他ならない。樊の北辺を任される維氏にとっては何よりも優先して当たらねばならぬ一大事である。
少なくとも、虞王のために兵を出すどころではなくなってしまったのだ。これを看過すれば、場合によっては樊領の尽くが勲尭の餌食となり、大陸の治安がさらに乱れてしまう。維弓は樊の少卿としてそれを防がねばならない。
維弓としては、どうにか姜子蘭の携えた密勅に応じて虞王を援けたいという気持ちはある。
しかし、勲尭の難を退けない限りそれが出来ぬことも分かっていた。
悩みぬいた果てに、維弓は維子狼の口を通じて姜子蘭に打診した。
「今、我らには北難ありて速やかに兵を南下させることは出来ませぬ。勲尭との戦いは、短くとも一年――場合によっては五年はかかるやもしれぬ大戦となるでしょう。王子には、我らを信じてお待ちいただくか、それとも他の諸侯を頼みとなさるかをお決めいただきたい」
姜子蘭にとっては、今まで目の前にあった道が急に崩れ落ちたような心地である。
といって、維弓に落ち度があることではないということも承知しているので、その場では、わかったと頷くしかなかった。
他の諸侯を頼むとなれば、また当てのない一人旅をしなければならない。
といって、維弓が短くとも一年と言うのであればその言葉だけで勲尭がいかな強敵かは推し量ることが出来る。それを、すぐに片が付くだろうと楽観はできない。果ての見えぬ雌伏をすべきなのか、それとも、可能性を探って旅をするべきなのか。
三日三晩考えても姜子蘭には答えが出せずにいた。
そんな時である。盧武成が姜子蘭を訪ねた。それは維子狼が招いたのだが、そんなことを知らない姜子蘭は盧武成を歓迎した。そして、自分の胸中を明かして盧武成に助けを求めたのである。
「武成は博識だが、卜などは出来ないのか? もしそうならば占ってほしいのだ」
そう懇願する姜子蘭の目の下には、墨で塗ったようなくっきりとしたくまがある。ろくに寝ていないであろうことは容易に想像がついた。
「我が父は観相の名手であったが、俺はその才を継げなかったのだ。悪いな」
盧武成はややばつの悪そうな顔をした。
「いいや、武成が謝ることはない。こちらのほうこそ、無理を言ってすまなかった」
姜子蘭はかえって恐縮してそう笑った。それは実に覇気のない笑みである。
「ならば――武成としての意見をくれないか? 思ったことをそのまま口にしてくれるだけで構わない」
「俺の意見か?」
問い返された姜子蘭は頷く。
姜子蘭には、これは自分で決めねばならないことだとは分かっている。しかし自分一人で考えているとどうしても思考が堂々巡りをしてしまうので、せめて誰かに相談したかったのだ。
「ああ。相談という形が嫌ならば、独り言を呟いてくれるだけでいい。私はそれを勝手に聞いて、勝手に参考にさせてもらう」
「……そうか」
姜子蘭は遠慮ぎみに言う。維子狼は姜子蘭のことをして大徳の君主足りえると言うが、盧武成には遠慮しすぎてはっきりと物を言えぬ子供にしか思えなかった。それでも頼られると何か言わねばならないとも思ってしまうのである。
「そうだな――進むにも退くにも、留まることにも勇がいる。要するに、そうと決めたら覚悟を持って、何があろうとその指針を揺るがさないことこそが肝要なのだ」
「な、なるほど」
「あくまで維氏を頼みとするのであれば、維氏に降り注ぐ難が落ち着くまで待て。外に出ると決めるのであれば未練を残すな。『疑事に功無く疑行に名無し』と言うだろう」
姜子蘭は頷きはした。盧武成の言い分は最もである。しかしその、どうするべきかということに今まさに頭を悩ませているのだからもどかしいような顔をした。
しかしそんな姜子蘭を見て盧武成は居住まいを正して、まっすぐに姜子蘭を見た。
「お前が――いいや、王子がそれを定められるのであれば、私は王子の臣として如何なる危地をも切り開くことを誓いましょう」
「……え?」
盧武成の言っていることを姜子蘭はすぐには呑み込めなかった。
その反応を見て、自分の言葉にまだ傲岸があったと盧武成は自省し、言葉を変えた。
「失礼いたしました。もしも王子が、不肖不才のこの身を何かしらの役に立つと見込んでいただけるのであれば、どうかその麾下にお加えいただきたい」
盧武成はそう言って深々と頭を下げた。