盧武成の葛藤
維子狼の問いかけは多分に盧武成の心を揺さぶるものであった。
これまで盧武成は、姜子蘭との旅の最中でも、それ以前の旅の中で厄介ごとに巻き込まれた時にも、剣を持ち他者と相対することは幾度となくあった。
そういう時の盧武成は、善悪というものを己の心から排除するように努めていた。
自分が正しいと思えば、その増長がいずれ我が身を滅ぼす。
自分が間違っていると思えば、その迷いが我が身を滅ぼす。
故に――自分が生きること。あるいは、その時の自分の信条のみをよすがとして戦うように心がけていた。
そのように割り切ることは何も悪いことではなく、むしろそれこそが人の世を渡っていくための処世術だとさえ思っていた。
しかし今、維子狼は、悪を為す者はそれに勝る徳を持つ者に仕えるべきだと言うのである。それは盧武成にはない考え方であった。
「お前はなんというか――見た目に似合わず夢見がちな男だな」
それが皮肉なのか、それとも羨望から出た言葉であるのか。自分の口から発せられた言葉でありながら盧武成には判然としなかった。
「悪いかよ。俺は、善になりたいと欲しながら、しかし頭に浮かぶことはいずれも他者を欺き、偽り、出し抜くことばかりなんだ。ならばその性根の悪さを、せめて善の助けとしたいと思うのは人情だろ?」
「そう思うのであれば、お前が王子に仕えればよかろう。何故に俺に、王子に仕える気はないかなどと聞く?」
「そうだな。まあ、俺の場合はしがらみが色々とあるというのもあるさ。これでも維少卿の子息だからな。父の名の恩を色々と受けた身としては容易く維氏を捨てられないんだよ」
軽い調子で維子狼は語る。しかしその言葉の中には、今までとは違う、僅かながらの歯切れの悪さがあった。自らの心に幕をかぶせるような物言いが、何故だか盧武成の心をいら立たせる。
そんな盧武成の心の内を見透かしたように維子狼は笑った。
「だいたいお前は、もう王子に惹かれてるだろ?」
「……何をもってそう言うんだお前は?」
「いやだって、俺の話はあくまで、王子が有徳の君主足りえる素質があるという前提の話だ。しかしお前はそれ自体を否定しないじゃねえか」
盧武成は言葉に詰まった。しかも、それでいて慌てて姜子蘭のことを貶したりしないのは維子狼の言葉を認めているのと同義である。
「まあ、お前のそれが――王子の素養を認めているのか、それともそうなってほしいという願望なのかまでは知らねえよ俺は。しかし、『妻を選べるは庶人の利、君主を選べるは無官の利』と言うじゃねえか。お前は羈絆のない今の立場を存分に活かすがいいぜ」
そう言うと維子狼は、軍の指揮があるからと先に行ってしまった。
そして残された盧武成は思いつめた顔をしていた。暫くして、孫可を伴って軍中を見回っていた姜子蘭が帰ってくる。盧武成はその顔をまじまじと見た。
「ど、どうしたのだ武成? 戦いの疲れが残っているのか?」
本気で盧武成の身を案じて不安そうな表情を浮かべる姜子蘭に、盧武成はなんでもないと素っ気なく返す。そう言われると姜子蘭は安心しながらも不思議そうに盧武成を見つめていた。
その間にも盧武成は一人、自分の胸裡というものを考えていた。
思えば盧武成はこれまで、何か一つでも、これこそが我が道であり信条であるというものを持ったことがなかった。生きるために必要なことを行い、他者と約を交わせばそのために尽力する。そういうことを念頭に置いていて、自分にとって譲れないものというのがないような気がしたのだ。
そういった生き方がつまらないとは思っていない。それが自分の性分に合っていると思っていた。
しかし――姜子蘭に対してはその分を越えて過度な肩入れをしているという自覚もまたあった。といってそれは昨夜、維子狼に言われたような姜姓のよしみなどではない。
霊戍への凱旋の中、考え続けても答えは出なかった。その日には維弓直々に、厳熊を討ち取ったことへの褒詞と恩賞を賜るという、一介の客分には過分なる待遇を受けたのだが、そのことさえも盧武成にとっては泡沫のような記憶である。
そのまま勝利の宴に招かれ、維氏の貴人らに歓待された間も盧武成は塞ぎこんで黙々と酒杯をあおっていた。
そして、維子狼の車に同乗して維子狼の邸に戻り、日が昇るまで考えこんでようやくわかったことがある。
――きっと俺は、子蘭のことを放っておけぬのだろう。天地のどこにも身の置き場のないようなあの顔を見ていると、それを見捨てていくことが出来ないのだ。
その身は姜姓にして虞王の孫という身分でありながら、何よりも王朝と天子というものを嫌う盧武成にとって、人が生み出して盲目的に信じている王朝というものが、一人の少年に、その双肩に背負うにはあまりにも大きすぎる物を背負わせている。それが許せないからこそ、盧武成は姜子蘭が何かを諦めたような顔をしたり、それでも虞王朝のために粉骨砕身するのを見て苛立ちを覚えたのだと気づいたのだ。