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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
双士戟弓
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悪と徳

 退却の最中の維子狼は異変に気付いた。

 どうにも、陶族の兵の足が止まったように感じたのである。少なくとも、先ほどまではまだ普通にしているだけで聞こえてきた喚声が、今は耳を凝らしてようやく聞こえる程度である。

 殿がうまくやったかと思ったのだが、その時に一人の兵士が駆け込んできた。それは、盧武成とともに残した二十騎の一人である。


「申し上げます。盧武成どのが――」


 盧武成の名前が出た時、維子狼の横にいた姜子蘭の体が強張る。しかし続く言葉は姜子蘭の悪い予感を裏切るものであった。


「陶族の将、厳熊を打ち取りました」

「――お、おう」


 維子狼は言葉を詰まらせながらも頷いた。その返事には喜びと戸惑いが同居しており、しかも戸惑いのほうが強いのである。無論、敵の猛将を討ち取ったのだから朗報に違いない。しかし維子狼もまた厳熊の強さを嫌というほど知っているので、信じがたいと思ってしまうのだ。

 しかし今はまだ戦の最中である。

 維子狼はすぐにその後の状況を聞いた。すると盧武成は、なんと単騎で陶族の兵と奮戦しているらしい。

 維子狼は軍の足を止めて、すぐさま引き返すことを決めた。

 そして、今まさにたった一人で百からなる敵兵を崖ふちまで追いつめている盧武成と合流したのである。

 こうなると陶族の兵にもはや為すすべはなく、馬を下り武器を捨てて投降した。

 維氏の領内に侵入した陶族との戦いはこうして、誰も予想だにしない形であっさりと決着を見たのである。

 投降した陶族の兵らに縄目を掛けて霊戍へ凱旋する最中。維子狼は盧武成をまじまじと眺めていた。


「どうした子狼? 今の俺なぞ血なまぐさいだけだぞ」


 盧武成は好意のつもりでそう言った。顔についた血は布で拭いはしたが、それでも鎧は未だ朱に染まっている。


「いや別にそりゃいいんだが。……しっかし、はぁ。ちゃんと、腕も足も減ってねぇな?」

「だったらなんだと言うんだ? 俺が四肢を保って勝つのは気に入らんか?」

「いや、喜ばしいことではあるんだがな。まあ――世の中にはなんともすごい豪傑がいるものだなと」


 維子狼は感心したような息を吐く。そして厳熊が陶族の中でも屈指の猛将であったと盧武成に教えた。

 最も、聞いたからといって盧武成に特に感慨のようなものはなく、そうか、と短く呟くだけであった。


 ――やはりおかしな男だ。


 維子狼はそう思わざるを得ない。これだけの強さがあればその手柄を喧伝するか、その腕を持って戦場で名を挙げ、身を立てることを考えるものではないかとも思う。しかし盧武成にそういった欲はまるで見られない。


 ――寡欲な奴だな。


 そう思いながら、しかし言うべきことが二つある。

 一つは今まで数多の維氏の将が厳熊に敗れているということである。今まで厳熊という猛将に単騎の武で敵う者はいなかった。それを今、盧武成は真っ向からねじ伏せたのである。その話をした上で、他者にどれだけ褒めそやされてもなるべく謙虚にしてほしいと維子狼は頼んだ。

 その頼みは維氏の面目を保つためのものであるのだが、盧武成は少しも嫌そうな顔をせずに頷いた。


「俺は別に自分の功を誇ろうという気もなければ、己が彼の厳熊なる将に比べて優っているとも思っていない。一つ何かが違えば死んでいたのは俺のほうであったろうさ」


 謙遜もなく盧武成はそう言った。それは維氏の麾下でかつて厳熊に敗れた者らへの配慮ということでなく、純粋に盧武成の思うところを吐き出したような言葉である。

 自分のほうから遠慮してくれと言っておきながら、維子狼はその言葉を聞いて、


 ――こうまで強い男がこのようなことを本心で語るのは、かえって嫌味たらしいな。


 とも思った。しかし、それもまた盧武成という男のらしさであり、こういう気質であるからこそ卓越した武を身に着けているのかもしれないとも感じるのである。

 そして二つ目である。

 それは昨夜、盧武成に言いかけたことの続きであった。


「武成――」

「なんだ?」


 引き絞るような声で(あざな)を呼ばれて盧武成は顔を険しくした。


「お前は、王子に臣従するつもりはないか?」


 維子狼にそう言われて、盧武成は眉間のしわをいっそう深める。あまりにも今までの話とは関連のない、慮外の言葉に思えたからだ。そんな盧武成の態度を見て維子狼は、空を見上げて語り始めた。


「なあ武成よ。人と人とが武器を持ち、憎み合って殺しあう。それは正しい人の在り方だと思うか?」


 滔々と語る維子狼の在り方は、盧武成に問いかけているというよりも、芝居がかった独白のようであった。


「それは、やむを得ぬことであろう。現実に争いというものはこの世にあるのだ。戈矛(かぼう)を持たねば我が身や親類が危うくなるのであれば、己や身内を脅かす者と戦うしかあるまいさ」


 盧武成は努めて感情を乗せずに言葉を返した。


「ああ、そうだとも。しかし他者が悪であることは己が悪に落ちてよい理由にはならぬ。いいやそもそも、我らが悪と見なす者らに言わせてみれば、こちらが悪であるが故に止むを得なかったと言うかもしれんぞ」

「まあ、そうかもしれんな」


 眦を細めて維子狼を睨む。何を言いたいのか直截に言え、と鋭い視線で訴えた。


「つまるところ、人の世というのは誤りに満ちているんだよ武成。誰かが初めに間違いを犯し、その過ちに抗わんとした者が更なる過ちを犯した。その繰り返しの果てに今の人の世は、過ちを行わねば生きていけぬという、実にいびつなものになってしまったというわけだ。俺が詐術を得手とし、お前は武を得手としているようにな」


 自虐と譴責を込めて維子狼は語る。

 盧武成にとってそれは未だ要領を得ぬ話であるのだが、しかし維子狼にとっては一代の演説であった。これまでの人生の中で事あるごとに考え抜いた人生の命題とも言えるものである。


「故に――我らの如き卓越した悪を有する者は、その大悪を凌駕する大徳の君主に仕え、その偉業を(たす)けるべきだとは思わないか?」


 維子狼は万感の想いを込めて語り、盧武成に問いかけた。

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