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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
双士戟弓
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剛戟無双

 退却する維氏の兵の最後列に駆けていく盧武成を見て維子狼は舌打ちをした。そして、二十騎を向かわせて自らは姜子蘭とともに退却することにした。

 ようやく少し落ち着いたらしい姜子蘭は後方を案じるような目をする。


「……武成は大丈夫でしょうか、維子狼どの?」

「まあ、死にはしないでしょうが――」


 維子狼は言葉を詰まらせた。それは、陶族の兵を率いている将に心当たりがあるからである。

 厳熊(げんゆう)という人物であり、その驍名は維氏の兵であれば嫌というほど知っている。矛を持っては無双の使い手であり、今まで維氏の将の中に厳熊と一騎打ちをして勝った者はおらず、維子狼としても勝つためには相応の策を弄さねばならないと考えている。


 ――武成が弱くないとは知っているが、あれは蒋不乙などという小人とは訳が違うからな。


 維子狼の中でその評価は、魏氏の軍事の長たる蒋不乙よりも高く、盧武成にしても勝てるとは思っておらず、せめて生きて戻ってくればいいだろうと、そんなことを考えていた。




 殿(しんがり)のため最後列にやってきた盧武成は、維氏の兵を路傍の石のように次から次へと押しのけて暴れている男を目にした。

 眉間のところに向こう傷を持ち、翡翠色の瞳と蜂のように鋭く高い鼻が印象的な彫の深い顔立ちの将である。白く輝く矛を振り回しながら突き進んでくるその様は、まるで嵐のようであった。維氏の兵らは役目上、挑もうとはしているがその足がすくんでいる。

 盧武成は馬腹を蹴って前進すると、その男――厳熊の前に躍り出た。


「維子狼どのの客将、盧武成でございます。失礼ながら――武功を譲っていただいても構いませんかな?」


 そう問いかけられて維氏の兵は一も二もなく頷いていた。

 そう話している間に厳熊の矛先が盧武成に向かう。飛矢よりも速いのではないかとさえ思える鋭い突きは、しかし盧武成の戟によって払われた。

 厳熊の馬は勢いの乗っており、そのまま盧武成に突進してくる。

 盧武成は馬を横走りさせて躱すと、戟の刃の部分を厳熊の首筋に向けて放つ。しかし今度は厳熊が矛で受け止めた。

 そしてそこで初めて厳熊は馬を止めた。それは、ここまで押していてた陶族の勢いが盧武成という若者一人によって殺された形となる。


「少しはやるようだな、若造」


 厳熊は楽しそうに笑った。しかし陶族の言葉はそもそもが大陸の言語体系と大きく異なるので、盧武成にはなんと言っているのかは分からない。

 ただし盧武成は厳熊を前にしても少しも恐れる様子がなく、その反応を見た厳熊はいっそう楽し気な顔をした。


「面白い、貴様――名のある将と見た。俺と一騎打ちをしろ」


 厳熊が叫ぶ。やはり言葉は分からないが、勝負を挑まれたことだけは分かったので、盧武成も馬腹を蹴って赤馬を進める。応じるように、厳熊も馬腹を蹴り、矛を振り上げた。

 両者の得物が激しくぶつかり合う。先ほどまでは一つの嵐であったが、今は二つの巨大な旋風が衝突しているようであった。戦いが激化するにあたって両者は激しく叫んでいる。その声は虎の雄たけびより、狼の遠吠えよりも猛々しい。

 盧武成にとっては初めての、真の強者との対決であった。

 同時に、この状況がこの上なくおかしいとも思う。ともすれば、いつか自分も戦場に出ることはあるかもしれないという予感があった。しかし、流されてやってきた北地でとは思っていなかったのである。

 そんなことを考えているうちに、厳熊がまた突きを放つ。厳熊にとっては会心の一撃であり、その矛先は盧武成の胸を刺し貫いたと確信した。だが盧武成は身を捻じってその月を交わした。

 そして次の瞬間、厳熊は盧武成の戟が三日月のような綺麗な弧を描くのを見た。それが、厳熊がこの世で最後に見た光景となったのである。

 血飛沫が飛び、厳熊の首と胴体は永遠に分かれることとなった。

 維氏の兵も、陶族の兵も――何が起きたかがすぐに分からなかった。陶族の兵にとっては頼もしき将であり、維氏にとっては何度も苦渋をなめさせられた恐るべき強敵である。

 それが今、名も分からぬ一人の若者の手によって斃されたのだ。俄かには信じがたい光景である。

 しかも盧武成のほうはまだ息一つ切らしておらず、陶族の兵を睨みつけて、


「さあ、次は誰だ」


 と静かに言った。その言葉にしても陶族の兵には通じはしないのだが、挑んで来いと言われていることだけは分かる。しかし厳熊が討たれたことで兵には動揺が走っていた。

 しかし一人の兵が、囲んで殺せ、将軍のかたき討ちだ、と叫んだことで状況は変わる。陶族の兵は自らを奮い立たせるように叫びをあげ、一斉に盧武成に襲い掛かった。

 しかし盧武成は怯まない。単騎でありながら、万の軍を率いているかのような威勢で突撃していった。

 そして戟を縦横無尽に振るって、ひたすらに敵を斬りまくる。大地が赤く汚れていく。その中に盧武成の血は一滴もなく、すべてが陶族の兵のものであった。

 数だけを見れば盧武成一人に勝てる道理はないのだが、支柱とも言える将の死と、これだけの軍を相手に一切の惰弱を見せない盧武成に陶族の兵は気圧されていた。

 やがて、一人の兵士が小さく叫ぶ。


「……ルーペイ、ツーイー」


 一人が口にしたのを呼び水に、兵士らは口々にそう叫んだ。盧武成は不審そうな目でそれを見つめる。

 今の盧武成は鎧も外套も返り血で真っ赤に染まっており、手にした戟もすでに血が固まってほとんど斬れ味を失っている。それでも、鉄塊を先につけた鈍器として構わずに手にしているのだ。陶族の兵にとってはそんな盧武成と目線を合わすということは鬼神の睥睨を受けるに等しい。

 一人の兵が馬首を返し、元来た道を逃げ出した。

 すると二人、三人と続けざまに逃げ出す。たった一人の男によって陶族の兵は壊滅したのである。

 しかも彼らは、恐怖に呑まれているために失念していた。自分たちがここまで駆けて来た道の先には崖しかなく、その先に退路などないということを。

 我先にと逃げ出した十ほどの兵が馬もろともに落下し、それでようやく他の兵士たちもその存在を思い出す。そこで強引に馬を止めたことで難を逃れた。

 しかしそこには――血にまみれた盧武成が、維氏の兵とともに待ち構えていたのである。

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