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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
双士戟弓
62/111

暴顓討つべし

 姜子蘭は逃げる維氏の兵の中を逆走していた。

 それはさながら洪水の中を川上に向かって泳ぐようなものである。引き返したいという想いもあり、しかしその先から聞こえる悲鳴が耳朶から離れないのである。今や姜子蘭の頭の中ではいろいろな思考がない交ぜになっていて、自分でも何が何だか分からなくなっていた。

 そうして、陶族の兵と維氏の兵がやりあっている最前線にまで躍り出る。

 そこではちょうど、矢傷を受けて落馬した孫可が今まさに陶族の兵に斬られんとしているところであった。

 姜子蘭は剣を抜き放ち、叫ぶ。

 そうして、訳も分からぬままに心を乱したままに剣を振るった。

 その刃は、孫可を斬ろうとしていた兵士の首に命中する。斬られた兵士から鮮血が霧のように吹きあがり、姜子蘭の全身に飛び散った。それでも首を両断することは出来ていない。しかし血はとめどなく吹き上がり、やがて兵士は白目をむいて馬から落ちていった。

 その最期の瞬間――人が死に、血にまみれた肉塊となる様を見て姜子蘭は思わず目を見開いてしまった。息は荒くなり、浴びた返り血の匂いが嘔吐を誘う。維氏の誇る駿馬の背が吐瀉物にまみれた。

 そして当然、それは敵に隙を晒していることになる。

 陶族の兵らは姜子蘭に群がってきた。無数の白刃が姜子蘭を襲う。しかしその刃が届くよりもわずかに早く、維氏の兵が陶族の兵を横撃した。その軍を率いているのは維子狼であろう。


「――王子? 何故、このような前列におられるのですか?」


 流石の維子狼も戸惑いと焦りを浮かべた。しかし聞かれた姜子蘭はまだ息さえままならない状態である。

 維子狼は眉をひそめながらも、兵に指図をした。


「さあ、奴らの背には断崖がある。一人残らず突き落としてやれ!!」


 維子狼の軍が合流したことで数の利は維氏にある。兵士らは活気づき、先ほどまでは壊走していた兵士らも足を止めて陶族のほうへ向かっていった。

 戦況は一気に維氏有利に傾く。その時、ようやく盧武成が追いついた。

 盧武成は返り血と吐瀉物で鎧を汚している姜子蘭を見て事情を察した。そして右手で姜子蘭の頬をはたく。乾いた音が響いた。


「……武成?」

「少しは気が落ち着いたか?」


 盧武成は淡々と言う。姜子蘭は突然のことに目を丸くして驚いたが、そのおかげで過呼吸は収まっていた。


「――気付けにはこれが一番よく利く」


 盧武成は悪びれもせず言う。そして姜子蘭のほうをまっすぐ見た。


「これが戦だ。お前が虞王を立て直すという名目で兵を起こすのであれば、このようなことが絶え間なく起きる。敵も味方も大勢死に、その責はお前一人に帰するのだ」


 それは事実である。しかし、十三歳の少年に投げかけるにはあまりにも重い言葉であった。

 双眸の奥に水底のような昏さを込めて盧武成は姜子蘭を見据えている。生半可な答えは認めないと言外に告げていた。

 姜子蘭の顔色はまだ悪いのだが、それでも真摯な目を盧武成に向けた。

 そして頷く。


「……顓は倒さねばならぬ。しかしそれは、虞王が天下を治めることがあるべき形であるから、という理由ではない。顓が民に暴政を敷いているからだ」

「――それがお前の答えか」


 盧武成は素っ気なく返すと、馬首を前線へと向けた。


「どうやら維氏の兵が押されだした。助勢差し上げたいがよろしいかな、維子狼どの?」


 もう先ほどまでの話はなかったような顔をして盧武成は聞く。しかし維子狼は首を横に振った。そして鏑矢を空に放つ。その音を聞くと、先ほどまで津波のように攻め寄せていた維氏の兵がゆっくりと退き始めた。


「こちらのほうが多勢で退かれるのか?」


 盧武成は怪訝な目つきをした。


「数で少ないにも関わらず押されているのであれば、敵に猛将がいる証です。一度退いて方策を立て直さねばなりません」


 維子狼は初めから後軍を囮として使うつもりであった。

 陶族が少数精鋭であることに違いはなく、ならば維氏に勝つためには奇襲を行うしかない。そこで仇子健には何も知らぬまま陶族の囮に引き寄せられてもらい、それを狙う伏兵を奇襲するというのが維子狼の立てた策である。

 しかし維子狼にとっての誤算は仇子健の思い切りが良すぎたことであった。敵の囮を見つけ、攻めると決断するまでにもう少し時間があるかと思っていたのだが想像以上の即断であった。それでも盧武成と孫可が崖上の伏兵に気づいたことで後軍に被害は出なかったのは幸いである。

 本来であれば維子狼は仇子健にその策を伝えておくべきであったのだが、知らせるときっと仇子健は囮などやりたがらず、自分が伏兵を奇襲する役目をすると言いだすか、そうでなくては維子狼の思惑を外れて独自に伏兵部隊を探し始めると思っていた。

 仇子健は猛将ではあるのだが、それゆえに策や姑息な手を嫌い、迂遠なやり方を好まない。維子狼にとっては使いにくい人物であった。

 しかし真っ向からの勝負であればこの上なく頼りがいのある人物でもある。

 そして今、維子狼は仇子健の後軍と合流しなければ陶族の軍に勝てぬと判断して撤退を決めた。

 しかし盧武成はそんなことなど知らない。維子狼が退くと決めたのを見ると、


「では殿(しんがり)は私がいたしましょう」


 と言って陶族の兵のほうへ駆けていった。

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