崖上の攻防
仇子健は陣中に姜子蘭と盧武成がいることを好ましく思っていなかった。
当然ながら仇子健は二人については維弓、維子狼から聞かされている。維氏にとって必要なことと頭では分かっていながら、
――戦場は孺子や若造の学びや鍛錬の場ではない。
という毒を心の中に持っていた。ただし維弓への忠義からそれを口にせず、命じられるままに後軍に招いたに過ぎない。
とりわけ気に入らないのが盧武成の存在である。維子狼の客将であるらしいが此度が初陣だと聞いていた。そういった未熟な男を自らの軍に引き込むことが嫌だったのである。
仇子健にとって此度の戦いは故郷である仇狄を焼かれた陶族への報復であり、忌まわしき陶族を兵の一人に至るまで根絶やしにしてやるという怒りだけを抱いて戦うつもりでいた。それが、とんだ重荷を与えられたと思うと憎さばかりを抱いていた。
そんな時である。
斥候の一人が報告を持ってきた。この先に陶族の一部隊がおり、野営しているというものである。それを聞いた途端、仇子健は先ほどまでの怒りを捨てて将の顔になった。
維子狼からは、勝てそうと見れば自分の裁量で戦ってよいと許可をもらっている。敵の数は五十とのことであり、好機だと仇子健は考えた。
他の斥候の帰りを待ち、状況を十分に確かめてから攻めるかとも考えた。しかしその間に陶族が他の部隊と合流してしまえば勝ち目が消えてしまう。ここは手早くせめ、陶の後続が現れたらすぐさま退くという策を取ることにした。
斥候に案内されてその場所に向かうと、そこでは確かに陶の兵らがいた。羊の毛で編まれた外套を身に纏った少数の部隊である。兵士らは各々が武装を解き、食事を取ったり馬に水をやったりしている。
陶族らがいるのは渓谷であり、その北側には断崖が聳えていた。
そして今、仇子健は後方に兵を待機させ、川上にある大岩から隠れて様子を窺っている。
――陶の奴らめ、完全に弛緩しきっているな。
仇子健はほくそ笑み、鏑矢を番えて空に向けて放った。
それは前進を示す鏑矢であり、仇子健の後方に控えていた二百の騎兵が一斉に現れた。仇子健はその先鋒にあって、五十ばかりの陶族を蹴散らさんと戦意を燃やしていた。
仇子健は奇襲を仕掛けるにあたって後方の姜子蘭たちには五十の兵だけを与えて後から来るようにと言って先に向かった。
この五十の騎兵を率いるのは孫可という若者である。その齢は盧武成とそう変わらない。
寡黙な人物であり、愛想がないという点では盧武成と似ている。
その孫可に向かって盧武成は言った。
「仇左尉の軍は危ういような気がしてならないのですが」
「備えを解いた五十の兵に二百の兵が負けると?」
孫可は怒りをまじえて盧武成を見た。
「私が陶族の将であれば、あれを囮として崖の上に兵を伏せます」
「まさか。あの崖を馬で駆け下りることなどできるはずがない」
「ですが、高見から矢の雨を降らせることは出来ます。それにあの一帯は岩場のようでございますので、巨岩を落とせば仇右尉どのの兵はたちまち危地に陥るでしょう」
そう言われると孫可の胸に一抹の不安が込み上げてきた。
しかし仇子健から与えられた命令は、姜子蘭を伴って後から来いというものである。独断で動くことは軍律に反する行為であった。
その時、話を聞いていた姜子蘭が口を挟んだ。
「孫可どの。私は維少卿より、戦というものを知るべきだと言われた。私に見聞させるために、崖の上まで案内していただけないだろうか。もし叱責を受ければ私から仇右尉どのに謝しましょう」
姜子蘭はこの中では一番の貴人である。そして、維弓が姜子蘭を参陣させたのはまさに戦いというものを見せるためであった。ならばこの行動は維弓の意に添うものである。そう自分を納得させて孫可は兵を伴い崖の上へと向かった。
孫可は崖上が近づくと、兵を馬から降りさせ、馬の口に牧と呼ばれる口木を噛ませて嘶きを起こさないようにさせた。
すると、盧武成の言った通り、そこには百を超える陶族の兵がいたのである。陶族の兵らは巨岩や丸太を用意しており、崖下を覗き見ている。仇子健の軍が真下を通るのを見計らって落とす算段であることは明らかであった。
孫可は馬に飛び乗り、敵兵有りの合図である鏑矢を放つ。
今まさに奇襲を掛けんとしていた仇子健らの兵は、そこで足を止めて音がしたほうを見た。やがて崖上から喚声が聞こえる。崖上に兵がいることは明らかであった。
そして――孫可率いる五十の兵は、陶族の兵の標的となった。
そして陶族の騎馬は維氏の兵よりも足が速い。加えて、奇襲を邪魔されたことで怒りに溢れている。孫可の軍の前衛にいた兵らは瞬く間に陶族の兵の餌食となった。
それでも姜子蘭と盧武成は軍の後方におり、二人の乗る馬は駿馬であるのでこのままいけば逃げ切ることは叶うであろう。しかし逃げながら、姜子蘭は背中から絶え間なく聞こえる阿鼻叫喚を耳にしていた。
悲鳴を上げ、しかしそれが不意に消える。その瞬間に一人の命が黄泉に落ちたかと思うと、姜子蘭にはそれらが呪詛の叫びのように思え、やがて馬上で嗚咽してしまった。
「堪えて駆けろ、子蘭。これが戦だ」
「しかし……」
そう言い淀んでから、姜子蘭は絶叫する。そして馬首を返して敵兵の元へ向かっていった。
それは善性などではない。ただただ、他者の死を後目に一人逃げることへの苦しみを避けたいというだけの想いである。
――まったく、どこまで人の上に立つことに向いていないのだこの王子は!!
盧武成は舌打ちしながら、しかし自らも馬首を返して姜子蘭の後を追った。