白馬と赤馬
その日の朝。目を覚ましてすぐに姜子蘭は維弓に呼ばれた。
何があったか分からずに向かうと、そこでは維弓が着座して待っている。そして姜子蘭が座ったのを見ると、出陣の話をした。
その提言をした維弓の顔には憂色があったが、姜子蘭の答えは堂々としたものであり、
「わかりました。私は今まで戦に出たことはございませんが、維氏の将兵の迷惑とならぬように努めまする」
と即諾したのである。
維弓はすぐに鎧を用意させた。白銀の、維氏の縁者のみが着用を許されるものである。さらにその乗馬には維弓がかつて鼓翟という部族から送られた迅馬と呼ばれる駿馬を献上した。日輪の如きつややかな毛並みを誇る精悍な白馬である。
姜子蘭は流石に遠慮した。馬の良し悪しに精通していない姜子蘭であっても、迅馬が並外れた駿馬であることは一目でわかった。同時に、これは武人の馬であり、自分のような右も左も分からぬ初陣の子供が跨ってよい馬ではないと感じたからである。
しかし維弓も譲らない。
「尊きお方が高価な装飾を身に着けるのは、良き物を纏うことでそれに相応しい人間にならねばいけぬという自覚を得るためにございます。迅馬が己に過分とお思いでしたら、それを駆るに相応しくならんとお努めください」
そう言われては断れず、結果として姜子蘭は維弓から駿馬を送られることとなった。
こうして、成王十八年九月。樊の北地、霊戍より、維氏の領を侵した陶族を討つべく維弓は兵を出した。率いるは維弓の庶子、維子狼。その軍への帯同が姜子蘭の初陣となったのである。
姜子蘭は維弓の賓客であるとだけは伝えられていたが、その素性については秘されていた。
それは維子狼の配慮であったのだが、どうにも居心地の悪さを感じていたところに、維子狼がやってきた。その横にいる男の顔を見て姜子蘭は顔を明るくした。
「王子。こちらにおわすは我が家の客人であり、天下に二人といない無双の勇者にございます」
維子狼はそう言って隣にいる男――盧武成を指した。
盧武成は漆黒の鎧と外套を纏い、腰には范玄から送られた郭門の剣を佩き、手には長柄の戟を持っている。そしてその乗馬は焔の如き赤毛であった。この赤馬は子狼が盧武成に与えたものである。
「武成!!」
姜子蘭は思わず声を張り上げた。しかし盧武成は眉間の皺を深くして苛立った顔をしている。
盧武成が何も言わないでいると、その間に維子狼は軍の指揮を行うために去っていった。
「久しいな。いや、といっても十日ほどか」
「……そうだな」
盧武成が素っ気ない言葉を投げたので、姜子蘭の声もすぼんでしまった。
「脩も元気にしているか?」
「ああ。今は、俺が馬術を教えている」
「それはよいな。武成が師であれば脩もすぐに上達するだろう」
「まあ、師が良いのかどうかは知らぬが、脩の呑み込みは早いよ。お前よりも覚えが早い」
盧武成は敢えて憎まれ口をたたいた。しかし姜子蘭は貶されたとは思わず、脩の馬術の上達を我が事のように喜んだので、盧武成はうしろめたさを覚えた。
そして、
――王子という身分を振りかざすことしかしなかったこいつが、随分と人懐っこい性格になったものだ。
とも感じたのである。初めて出会い、均を連れて三人で旅をしていた時とは別人のようである。
王宮から一人で外に出て、誰も頼ることも出来ず、王子という身分など何の役にも立たない旅をしてきたことが姜子蘭を変えたのか。あるいは、王子という身分を取り払った姜子蘭という少年は初めからこういう純朴な性格だったのかもしれない、とも盧武成は思う。
「ところで盧武成は、今まで戦に出たことはあるのか?」
「あるわけがないだろう。鎧など生まれて初めて身に着けた。お前がそうであるように、俺にとってもこれが初陣ということになる」
そう口にしながら、しかし盧武成は堂々としている。鎧姿は実に様になっており、まだ若いながらその落ち着きようは歴戦の武者のようであった。その感想をそのまま口にすると盧武成は目を丸くして、不思議そうな顔で姜子蘭を見た。
「なんだ、お前は緊張しているのか?」
「……それは、当然のことだろう」
「武器を持った相手と命のやりとりをする、という意味ならば魏氏の兵に追われていた時と変わらないだろう。あの時の俺たちは三人だったが、今は鍛え上げられた五百の精鋭がいるのだ。何を怯える必要がある?」
澄ました顔でそう言われると姜子蘭の心は少しだけ落ち着きを取り戻した。
今は姜子蘭たちは二百いる維氏の軍の後軍の最後尾で、五十の兵に囲まれている。
維氏の軍編成は前軍と後軍だけを置いている。というよりも、大夫の身分では三軍よりも多くの軍を編成してはならないのが決まりであった。ちなみに樊には国軍は六つあり、前後と中、左右がある。後中軍に総大将が座り、前中軍が先駆けを務める。そして前後の左軍、右軍が中軍を翼佐するというのが習わしとなっている。
維子狼は前軍にあって陶族を追っていた。その補佐をするのが後軍である。
後軍を率いるのは仇子健という将である。官位は左尉。仇狄の人であり、齢三十の男であった。