快足の奇襲
楼環は今年で六十になる、維氏の宿将というべき軍人であった。
維氏はその家の中に司馬という軍事の長となる私設の官職を置いており、右司馬と左司馬がいる。右司馬のほうが高位であり、かつてはその地位に肥何が就き、楼環と共に維弓を支えていた。
しかし肥何が引退してより後は、今は維氏の軍事を一手に担っているのは楼環であった。
そもそも肥何の引退自体、維弓と楼環とが頑なに引き留めたのだ。しかし肥何は臓腑に病を抱えており、軍の激務に耐えきれずいつ倒れるか分からないと言われて二人はやむなく諦めたという経緯がある。
しかし、楼環もまた名将であった。
維弓に軍制を改め、北に領土を求めるように進言したのは楼環であり、その献策だけでなく実際に維氏が騎兵部隊を導入するために多大な功績を果たしてもいる。
肥何と楼環では肥何のほうが十二も年上であるのだが地位は楼環のほうが上である。実は軍制改革以前は肥何が右司馬であったのだが、維氏が楼環の献策で発展すると維弓は楼環を右司馬にし、肥何を降格させた。
しかしその人事について、当の肥何を含めて誰からも批判の声が上がらなかったのは楼環の功績の大きさと手腕故である。
「楼環はまだ何も言っていない」
維弓は静かにそう言った。
顔を伏せながらちらりと楼環を見ると堂々としている。事態は火急であり、維弓の子すべてに意見を言わせてから進言するなどという事態ではない。ならば楼環の沈黙は意図的なものである。
維子狼は誰にも聞かれないように嘆息してから、わずかに詰るような目を楼環に向けた。そして、楼環の思惑になど何も気づかないふりをして維弓から発言の許可を得た。
「快足の兵、五百を持って明朝に出撃して陶族を叩くがよろしいかと存じます」
「五百で足りるのか?」
維弓は維子狼の言葉を訝しんだ。先ほどの報告に陶族の兵力に言及したものはない。それはまだ情報が足りていないからであった。
そのような状況において寡兵を小出しにするのは愚策と維弓は思ったのだが、維子狼の考えは違う。
「父上は塁壁を築いて北の守りを固め、あちらこちらに狼煙台を作り、駅舎を整備して一たび事があればすぐに霊戍に知れ渡るようになさいました。その堅固な守りと網の目の如き体制を持ってして補足出来ぬのであれば、陶族は少数の兵を分けて国々の隙間から鼠のようにこそこそと忍び込んだにすぎません」
なるほど、と維弓は頷いた。しかしそれは維子狼の考えであり、裏付けがない。維弓は楼環のほうを見て意見を求めた。
発言を促されて、維子狼が来てから初めて楼環は口を開いた。
「よろしいかと存じます」
楼環がそう言ったので維弓は維子狼の案を容れた。
そして献策者の維子狼が五百の兵を率いることになったのである。
退出する前に維子狼はもう一つ維弓に進言した。
「此度の出陣に王子にも同行していただきたく思うのですがいかがでございましょうか?」
「王子を、か?」
維弓はあからさまに嫌そうな顔をした。しかし維子狼は目に力を込めて訴えるように維弓を見つめながら言葉を続ける。
「王子の境遇、大願を考えればいずれ戦を出ることは避けられません。これは虞王の存亡とは関わりなき維氏の戦なれど、実際に人と人とが武器を交わし殺し合うのがいかなるものか知っておいていただく必要がありましょう」
「それはそうだが――」
「それに、父上がいかに虞王を尊敬なされていても兵らは別です。王子のために挙兵するのであれば、早いうちに王子を将兵と親しませておいたほうが、後々の王子のためにもなりましょう」
維弓は英邁な族長である。維子狼の理屈は正しく理解していた。
しかし万が一ということがある。もしも姜子蘭が戦死するようなことがあれば、維氏は王子を招きながら戦場に送り込んで謀殺したという風聞を受けることになるだろう。
「ご安心ください父上。私に一人、無双の勇者の心当たりがございます。その方に王子の護衛をお任せいたしますれば、万に一つの心配も不要にございます」
維子狼は維弓を安心させるように力強く言った。
ならば、と維弓は腹を決めた。しかし、あくまで出陣を打診するだけであり、姜子蘭が断ればそれまでである。そして、それを告げるのは維弓自身が行うというのが条件であった。
維子狼は維弓の邸から帰ると盧武成の部屋に向かった。東の空がほんのりと白く輝いている。
盧武成はその時にはもう起きて、胡服を着こみ外に出ようとしているところであった。
「武成、今から出陣だ。お前にも鎧と武器をやるからついてこい」
「――なんだと?」
盧武成が怪訝な顔をしたのも無理はない。維子狼はまるで散歩にでも誘うような気安い口調だったのである。
しかも家臣に命じて既に盧武成のための鎧まで持ち込んできているのだから、盧武成は怒りよりも困惑のほうが勝っていた。
「まあそう困るな。お前は俺の客将として王子の護衛をしてくれればそれでいいさ」
「……なんだと?」
その言葉に盧武成は、いっそう表情を険しくして維子狼を睨みつけた。